継ぐまち:京都府京丹後市
継ぐひと:梅田正彦(梅武織物株式会社)
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:高橋マキ 写真:Akitsu Okd 編集:中鶴果林(ココホレジャパン)
現代に受け継がれる 「丹後地域の絹織物」
京都府北部に位置する丹後地域は、現在も国内の着物の生地(和装用表白生地)の約6割を生産し、生糸の3割以上を消費する国内最大の絹織物産地。近年は「海の京都」と名付けられ、観光地としても注目を集めている。京都の絹織物といえば京都市内中心部で生産される西陣織(主に帯)がよく知られるが、産業としては、この丹後で生産される丹後ちりめん(主に着物)と対をなす。
「峰山・大宮・網野・丹後、弥栄、久美浜の6町が合併して京丹後市になったのが平成16(2004)年。丹後ちりめん、織物といえば、今もむかしもこのあたり、網野地区です」
そう教えてくださるのは、梅武織物株式会社の梅田正彦さん。この地で3代続く機屋(はたや)の当主だ。「機屋」とは、機を織るのを職業とする家、また、その人のこと。梅武織物株式会社は、アパレルショップや百貨店向けのネクタイ、雑貨屋向けの小物、全国の神社仏閣向けの御守りの製織を手掛けており、数十台の織機を駆使して、用途に応じた工法で生産している。
取材している今も、どこからかガシャンガシャンとリズムのいい音が聞こえてくるのは、近所で機屋の織機が稼働している証。丹後ちりめんは江戸時代から300年以上もの長い歴史を持ちながら、その工場の多くは、住宅に小規模な機場を併設して行う家内工業的な形態で支えられてきた。梅武織物も、そのうちの1軒。
「うちも父親は農業学校に行ってましたけど、昭和30年代かな、織物がいいというので、織物をやるみたいな感じになって。うちだけじゃなく、30軒ぐらいの地域のうち、7割か8割方の家には織機が入っていましたからね。丹後ちりめんだけでなく、一部インテリアや、帯も手がけて、みんな工場っぽいことをやってた。今ではうちだけになってしまったけど」
(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる「ガチャマン景気」と言われた時代。いとへん産業のこの景気拡大現象は、好況不況の波をくり返しながらもゆるやかに続いたが、バブルとともに弾けて以降は右肩下がり。安価な海外生産品の輸入、担い手の高齢化もあいまって今日一軒、明日また一軒と、その担い手の灯火が消えているのが令和の今日。京丹後市の織物産業も例外ではない。
その大切な灯火のひとつをどうにか消すまいと、継業を決断したのが梅田さんである。
いちばん慕われた整経屋さん、突然の休業
昭和初期に建てられた木造の古い建物の中に、年代物の大きな機械が5台設置されている。砂地の上に糸を巻いたコーンと呼ばれる器具がたくさん並び、肉眼では捉えきれないような細い絹糸がコーンから立ち上がっていて、独特の景色を作り出している。
「ここはもともと、「山敬」という屋号の整経(せいけい)屋さんでした。といっても多分、その前はちりめんを織っていらしたと思います。そうだとすると、うちなんかよりも歴史は古いはずです。前オーナーの先代に先見の明があって、織物から、織物の準備工程である整経業にシフトしたと聞いています。ここにある機械は5台ですけど、工場は他にも2ヶ所あって、整経機は全部で18台所持されていました。家族単位で効率よく仕事されていたことがうかがえますね」
ひとくちに織物といっても、着物地や帯だけでなく、ネクタイ、カーテンやクロスなどのインテリア製品、ブルーシート、建築資材、車のシートや目に見えない芯材、カーボン生地まで多様。何種類もの織り方の技法があるが、準備工程に「整経」がある。整経とは、文字通り経糸(たていと)を整える作業で、経糸を本数、長さ、幅などの織物設計に従い均一の張力で巻き取り、織機に取り付けできる状態にして機屋に出荷する、専門性の高い仕事。
「これがないと織物が始まらないのですよ」
整経業は、織物になくてはならない存在。整経がいいと工程がスムーズに進むので、織り手さんが困らなくて済むから、やはり腕のいいところに仕事はやってくる。織物産業が右肩下がりの時代にあっても「この仕事は絶対になくならない」という先代の読みは当たった。丹後地域だけでなく、他府県からの仕事も担って多忙を極めていた山敬さんだったが、10年前のある日、突然、梅武織物をはじめとする取引先各所に「できません」の一報が入った。
「昼夜なくフル回転で、がんばりすぎたのでしょうかね。わたしとそんなに歳も変わらないはずですけど、身体を壊されてね。突然のことで、そりゃあもう、大パニックでしたよ」
山敬さんがダメなら他に依頼をすればいいというわけにはいかないのだ。
高齢化による廃業の加速、待ったなし
それでもなんとか10年もの時を凌いできた丹後地域の織物業界。なのに、今、このタイミングで織屋の梅武織物が山敬を継業し、整経業を内製化すると決めた理由はなんだったのだろう。
「一番のきっかけは、高齢化による廃業問題です。あたりまえだけど、10年前に60代だった人が、70代になった。整経の手前の工程である糸繰りのおじいちゃんやおばあちゃんは、70代だったのが80代。明日辞めるって言われる可能性もある。この10年のうちに、廃業した整経業も何軒かあり、若手のところに仕事が集中してしまっている状況も良くないですよね」
10年という年月にまさかのパンデミックも加担、業界の悩みは満ち満ちて、背水の陣。そんな2022年の春、ひょんなことから自宅療養中の山敬さんに再会することになった梅田さん。山敬さんのご親族に承継の意思がないことを確認するとすぐに覚悟が決まった。申請した京都府の事業承継支援補助金も受けることができ、秋には契約が完了し、土地建物、機械設備などを承継した。
「これはもう、絶対、整経を自分のところで持っていないとダメだという危機感ですよ。だって、時間かかっても何しても、織屋のうちが続けていくためには100パーセント必要ですから」
ところが、織屋の息子として紡織を学び、ジャガードのエンジニアを経て家業を継いだ梅田さんをしても、「奥が深い仕事」。
「機械を扱うといっても、スイッチをポンと押したらできるものではないですから。ほとんどが手動でアナログ。山敬さんの教えを乞いながら、なんとか1年かけて一通りの作業ができるようになれば、自信になるかなあと思っています」
時間がかかってもいいと思いつつ、一方で1日も早い整経機の再稼働に向けて少し気持ちが焦るのは、山敬さん時代からの取引先の声にあった。
「みなさん、うちが継いだことを知って、今か今かと復活を待っていらっしゃいます。ありがたいことに、いくつか問い合わせや期待の声をいただいております。これだけ時間が経っても連絡をいただけるということは、いかに山敬さんが品質の良いものを生産されていたのかということを実感しています。中途半端なものは出せないですね」
1万円のネクタイを1万数百円に
経糸が入ってこなければ織れないので、織り手は織機を止めて待たなければならない。
業界がすでにそんな状態にあって、梅田さんは、継業した整経業の担い手を新たに社員として迎え入れる準備を整えている。でも、斜陽産業といわれて久しい織物業界。新しい担い手を迎えるのが難しい状況だ。
「これまでの単価のままではやっていけないことは、もう産業のみんながわかっている。だから、この仕事だけで生活ができて、土日休みが取れて、ちょっと自由もきく。そんな待遇でお迎えしたい。
新しい担い手は、織物業界の経験者でなくても構いません。ものづくりへの熱意があって、織物や整経業に興味を持ってくれる方であれば、数年で一人前になります。最初は、右も左も分からないと思いますが、うちらが丁寧に教えます。斜陽産業と言われているけれど、織物産業に前向きな気持ちを持った方に入社してもらいたいですね」
職人の世界は分業制。工程の中で次から次へと職人の手を渡り、最後にわたしたち消費者のところに届くまでに金額が上乗せされていくのだが、なぜ職人が高齢化しているかといえば、年金をもらいながらでなければ、到底やっていけない賃金だからだ。
「売り場に並ぶ1万円のネクタイが1万数百円になるだけで、職人の賃金はだいぶ上がるんです。それさえも叶わないようだったら、もう日本で生産できなくなってしまう」
と梅武さんはいう。数百円で変わる未来。
「興味がある人が1週間ぐらいお試しでも研修に来てくれたら。その中から「この仕事をやりたい!」という人が現れてくれたら、嬉しいですね」
丹後の織物は、世界中のハイブランドもその技術を認める最高級織物。メイドインジャパンの誇りを、今ここで絶やすわけにはいかないのだ。
※梅武織物株式会社は、事業承継した整経業の従業員を募集しています。
ご興味のある方は、ハローワークへお問い合わせください。
継いだもの:京丹後市の織物産業を支える礎
住所:京都府京丹後市網野町