継ぐまち:広島県神石高原町
譲ったひと:中平道正
継ぐひと:門田英章、門田茜
繋いだひと:永谷真次(株式会社エブリイ)
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:イソナガアキコ 写真:細川円 編集:中鶴果林(ココホレジャパン)
広島県神石郡神石高原町。広島県の東寄り、標高400~700mの山間部に位置し、夏は涼しく、冬は寒い。地域ブランド牛「神石牛」や稀少な和玉の在来種の生芋でつくるコンニャクが特産品である。もともとは、神石郡にあった4町村(油木町、神石町、豊松村、三和町)が2004年に合併し、誕生した町だ。
その合併のずっと前、1948年から続く神龍味噌は、昔ながらの木桶を使い、自然熟成で味噌を仕込む広島県唯一の味噌蔵だ。仕込みに使う糀(こうじ)は、「糀ぶた製法」という手法で手づくりしているが、この手法を採用しているのは、全国にある味噌蔵・醤油蔵の1%にも満たないという。
なぜ、こんなに手間ひまかかる昔ながらの製法を守り続けたのかという問いに、神龍味噌2代目の中平道正さんは苦笑いして、こう答えた。
「実を言うとね、小さな蔵だから機械化する資金がなくて、そうするしかなかったというのが本当のところ。今は価値があるといわれる木桶仕込みも、保健所から衛生的な指導を受けたこともあったんですよ。でも後になって木桶でつくる方がいい味噌ができると言われるようになってね。あのときに辞めんでよかった」
4年間考えた末の廃業だった
中平さんは1945年生まれ。衣料品の付属品をつくる会社の営業として、東京で5年6ヵ月、北海道で1年6ヵ月間暮らしていた。1971年、父親の希望もあって神石高原町にUターン。1976年に父親と懇意にしていた地元の方から神龍味噌を夫婦で承継した。つまり中平さんも事業承継の経験者だ。
中平さんが神龍味噌を承継した頃の神石高原町は人で溢れ、賑わいがあった。
「昭和50年代頃まではこの町にも子どももようけ(たくさん)おってね、学校給食用に味噌を卸しとって、それだけでかなりの売り上げがあったんです。小売店も150軒くらいあって、そこにもうちの味噌を卸しよった」
しかし時代とともに地域の過疎化が進み、町の人口が減少すると味噌を卸しているだけでは立ち行かなくなった。そこで中平さんは一念発起。塩麹の素や、味噌づくりキットをつくって、新たな販路を開拓した。夫婦二人で工夫しながらなんとか味噌蔵を続けていたが、2012年、奥様が65歳の若さで亡くなってしまう。
「この蔵を継いでからというもの、朝5時より遅く起きたことはないし、繁忙期は晩御飯食べて、夜の8時から11時頃までまた蔵の仕事をしよった。でも、妻が死んだときわしも70歳で、気力も果ててね。それからは味噌の仕込みはやめて、糀と甘酒だけつくるようになったんです」
大阪と広島市内に離れて暮らす娘もそんな父を見かねて「もう廃業したほうがいいよ」と言うようになった。
「わしもそろそろ潮時だと思って、蔵の取り壊し費用の見積もりをとったんです。そしたら莫大な費用がかかることがわかってね。こりゃ、廃業するのも大変だと。町役場の人もわしのところに来て『1軒しかない味噌蔵だからなんとか続ける方法はないだろうか』という。それなら、わしが続けられるうちに誰かが継いでくれんかなと思うようになったんです」
それから中平さんは町役場に事業承継の相談に通うようになった。アドバイス通り負債を片付け、周囲に後継者を探していることを伝え続けた。ローカルテレビ局の取材も数回受けた。その時は反響も大きく、法人や個人からの問い合わせも受けたが、老朽化した設備の改修に資金がかかることがわかると皆、手を引いてしまった。
承継を考え始めて4年が過ぎようとしていた。「もう、だめだな」。区切りをつけたくなった。やれることはやった、そう思えば諦めもついた。2017年、中平さんは静かに神龍味噌の歴史を閉じた。
1本の電話が起こした奇跡
一方で、町で唯一の味噌蔵の灯を消すまいと、諦めず動き続ける人たちがいた。当時、地元スーパー「エブリイ」(本社:広島県福山市)の商品部長(現在は取締役社長付特命担当)を務めていた永谷真次さんだ。中平さんがいよいよ味噌蔵を閉じたと聞いた永谷さんは、部下を引き連れ中平さんの元を訪れた。
その時のことを中平さんはこう振り返る。
「エブリイも町(役場)も応援するから、承継してくれそうな人を探すからなんとか続けてくれませんかと言うんよね。でも4年待ってだめだったんですよ。私がしよったようなことを、今の時代にする人はおらんと思った。そう言っても彼が食い下がるもんだから、『そういえばアルバイトをしたことのある門田くんならできるかもな』と、とついポロっと言うたんよね」
独り言のようなその言葉を、永谷さんは聞き逃さなかった。中平さんの目の前で、永谷さんは門田さんに電話をかけた。
「電話に出たら、いきなり『門田くん、今、どこにおるん?』って。職場だと伝えると、永谷さんが部下を引き連れて僕の職場までやってきたんです。そして『さっき神龍味噌に行って来たんじゃけど、門田くんだったらできるって言いよるよ。僕らも手伝うからやろうよ』と」
実は、英章さんと永谷さんは町の伝統や食文化を守ろうと活動している地元の若い生産者や関係者が集まる飲み会の仲間だった。その席で、永谷さんが若い生産者に「神龍味噌を継がんか?」と声をかける姿を、英章さんはよく目にしていたという。
「でも、その頃僕はこんにゃく農家で働いとったんで、承継の話に興味はなかったんです。そのうち、飲み会のメンバーの一人が継ぎたいと動き始めて、それがうまくいくといいなあと思っとったんです」
ところがそのメンバーは家族の反対にあい、承継の話は頓挫してしまう。それを目の当たりにし、英章さんは気持ちが揺らぎ始めた。
「僕は数年前に神龍味噌にアルバイトに行ったことがあったから、お父さん(中平さんのこと)のことを知っとったんで大丈夫かなあと…」
そんな状況の中での、永谷さんの突撃訪問だった。「門田くんならできるかもしれん」という中平さんの言葉、そして永谷さんの熱意。
「気がついたら、『じゃあ、僕がするわ』と答えていました」
英章さんの覚悟は決まった。あとは、妻の茜さんの同意が得られるかどうかだった。当時、茜さんは地元の特産品の「手もみこんにゃく」や、その加工品を販売する事業を立ち上げたばかりだった。
「主人が『地元の味噌蔵を継ぎたい』と言ってきたときは『この人、何を言い出したんかな』って思いました」
そう笑う茜さんは三重県の出身。高校卒業後、犬に特化したセラピーを学び、広島県福山市にある災害救助犬育成や殺処分ゼロに取り組むNPO法人に勤務した。そのときに福山市で働いていた英章さんと出会い、結婚。出産を機に、英章さんが働いていたこんにゃく農家がある神石高原町へ移住し、特産品のこんにゃくを材料にした惣菜を製造・販売する直売所を立ち上げていた。
「当時はその直売所のことで精一杯だったし、私は味噌の材料が何かも知らなかったんです。だから『なんで味噌蔵なの?』と思ったけど、広島県に唯一残る製法で味噌をつくっていた蔵で、もし私たちが継がなければその伝統が途絶えてしまうと聞いて、それはあまりにもったいないと思ったんです」
もともと茜さんがこんにゃく惣菜の直売所を始めたのも、神石高原町産の希少な在来種で作っているこんにゃくの認知度があまりに低いことに驚き、「もっとたくさんの人に知ってもらいたい」という想いから立ち上げた事業だった。そんな茜さんが、英章さんの提案に同意するのにそう時間はかからなかった。
「じゃあ、やってみようか」
4年近くもの間進展しなかった継業の話が一気に動き始めた。
承継を支えた周囲の手厚いサポート
2020年春、中平さんから門田さん夫妻への事業承継の準備が始まった。契約の事務的な手続きは事業承継・引継ぎ支援センターに任せた。蔵、機材、道具一式は、門田さんにすべて譲渡されたが、4年近く使っていなかった蔵や機材の傷みは激しく、その改修や買い替えに予想以上にお金がかかった。
「町役場の人から『ものづくり補助金』というのがあると教えてもらって、それを使わせてもらいました。新型コロナウイルス感染症に関連する無金利融資も利用できたし、親身に相談に乗ってもらえたのは有り難かったですね」と英章さん。
エブリイも神石高原町の食と文化の支援をしたいと企業版ふるさと納税を通して町に寄附。まちの財産である神龍味噌の承継をサポートした。またエブリイが紹介した取引先からもオリジナル法被(はっぴ)や制服が提供されるなど「昔ながらのつくり方の味噌づくりを次世代に残したい」と、同じ想いを持つ多くのサポートがあったという。
さらに小規模事業の承継の場合、それだけの経費をかけて継いでも事業としてちゃんと成り立つかどうか、という心配もある。門田さん夫妻も、1年目はそれぞれの仕事を続けながら、兼業という形で中平さんの指導のもと味噌を仕込んだが、できた味噌を近所の産直市やエブリイの一部店舗で販売すると、瞬く間に完売した。「後を継いでくれる人ができてよかった!」「待っとったんよ」神龍味噌の4年ぶりの復活を多くの人が喜んだ。
そして2年目となる2020年、エブリイは「商人(あきんど)のお墨付き」というプライベートブランドを立ち上げ、その第1弾として神龍味噌を販売することを決めた。これにより神龍味噌の予定生産量は、中平さんの時代に比べて2倍に増えた。
小規模事業のM&Aは採算が見込めないため、多くの企業は消極的だ。しかし、エブリイはあえてそこに手を差し伸べた。地元に根をはって営業する「地縁店」として、地域の未来のためにどうすれば神龍味噌という伝統を残すことができるか。求めているのは目先の利益ではなかった。だからこそたどり着いた支援の形だった。
中平さんと門田さん夫妻をつないだ永谷さんの執念。資金面や販路の確保でファインプレーを見せた町役場や地元スーパーのエブリイ。それらの見事な連携が、一つの小さな味噌蔵を救った。英章さんはこんにゃく農家を退職し、味噌づくりに専念することを決意した。2020年10月、神龍味噌は正式に門田さん夫妻に承継された。
守るために変えることも大切
周囲のサポートに感謝しつつ、当面の課題は「昔ながら」の製法を守りながらも生産量をいかに増やしていくかということ、と言う英章さん。そして視線はさらにもっと先の未来にある。
「この伝統的な味噌づくりを100年後、200年後まで残すためには、守るべき伝統は守りつつ、やろうと思った誰もが続けられる方法に少しずつ変えていく必要もあると思っとるんです」
充填機を導入して1日に可能な袋詰めの数を増やし、糀室(こうじむろ)の除湿器を業務用に買い換えて夜中に何度も起きなくてもいいようにした。「手作業じゃなくていいところを機械に任せる。それは決して悪いことじゃない」と英章さんは言う。
「この人にしかできない」では、その人がいなくなれば絶えてしまう。また、一人にかかる負担があまりに大きいままでは、どんなに作られるものが魅力的であっても継ぐ人はいなくなってしまうだろう。
「自分たちのやり方で未来にバトンをつなげていく」。英章さんの言葉に覚悟を感じた。
味噌の材料が何かも知らなかったという茜さんも、今では慣れた手つきで仕込み作業をこなす。2021年12月にはECサイトをオープン。また、甘酒のパッケージを、若い女性にも興味を持ってもらえるようなデザインと使いやすいボトルに変更したが、それも茜さんが中心になって取り組んだ。
「何が正しいかわからないけど、とにかくやれることはやろうと思って」そう話す茜さんの表情は明るい。
そんな二人に「お父さん」と呼ばれ、慕われる中平さんは彼らの活躍に目を細める。
「1年目は一緒に蔵に入って仕込みも手伝ったけどね。今はなるべく二人に任せて、あまり口を出さないようにしとります」と中平さん。その言葉にふふふ、と笑う門田夫妻。
もしかしたら、中平さんと門田夫妻のこのほどよい距離感こそ、継業がうまくいった最大の理由だったのかもしれない。
継いだもの:味噌蔵