継ぐまち:長野県松本市
継ぐひと:菊地徹
譲ったひと:宮坂賢吾
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:石原藍 写真・編集:浅井克俊(ココホレジャパン)
約100年、人々を癒し続けてきた公衆浴場
長野県松本市。雄大な北アルプスの山々に囲まれた盆地にあり、駅を中心に徒歩や自転車で市街地を回ることができるコンパクトなまちである。クラフトや民藝、音楽、演劇、現代アートなど多様な文化が集まるまちとしても知られている。
JR松本駅から駅前通りを10分ほど歩くと、「ゆ」の文字が目印の銭湯「菊の湯」が現れる。創業は100年ほど前。もともと材木屋を営んでおり、職人のために廃材を使って風呂を炊いたのが始まりという。昭和初期に公衆浴場となって以降は、近隣の人はもちろん、登山客の疲れを癒す場所として親しまれてきた。
1989(平成元)年に大規模改修を行い、「菊の湯」は三代目の宮坂賢吾さんが営業を続けていたが、2020年10月、その運営を菊の湯の向かいで本屋と喫茶店「栞日」を経営する菊地徹さんが受け継ぐことになった。
自分なりのサードプレイスを志して
「菊の湯」を継いだいきさつの前に、まずは継業した菊地さんと、彼がオーナーをつとめる「栞日」について紹介したい。
菊地さんは静岡県に生まれ、茨城の大学に進学。卒業後、2010年に松本にやってきているが、どうして松本だったのだろうか。
「大学では国際関係に関わる分野を専攻していたのですが、早々と挫折してしまいました。自分の仕事として手応えを感じられるようになるには途方もない道のりだなと感じてしまって」
そんな時に始めたのが、スターバックスのバイトだった。大学は田舎にあったため、娯楽といえば「部屋呑み」がほとんど。美味しいコーヒーを淹れられたら、仲間うちでちょっといい顔ができるかも……という不純な動機だったそう。しかし、働いているうちに、スターバックスが掲げる“サードプレイス”の考え方に魅了され、将来目指す方向のイメージも固まった。
「沈んだ表情でお店にやってきた常連さんが、いつもの飲み物を注文し店で過ごすと、また笑顔になって帰っていく。そんな風景を見ていると、『国際』みたいなスケールじゃなくても、自分の目と手の届く範囲の人を幸せにできれば十分だなと思って。アルバイトを始めて1ヶ月後には、『自分なりのスタバをつくるんだ』って決めていました。『栞日』はその時に考えた名前なんです」
このままスターバックスの社員になってブランディングを学びたいと考えていた菊地さんだったが、リーマンショックの煽りで新卒採用が中止となり、別の業態でサービスを学ぶことに。そこで採用されたのが、松本の老舗旅館「明神館」だった。
その後も菊地さんは、軽井沢のベーカリー「haluta」でサービスの経験を積みながら、「栞日構想」をかたちにするべく模索する日々。自分が暮らしたいと思えるまちに「栞日」をつくろうと考えていたが、歴史や文化があり、まちのサイズ感も程良い松本の良さにあらためて気づき、この場所を拠点に決めた。
「松本はすでに喫茶店やカフェが多く、それがもう一軒増えたところでインパクトはないなと思っていました。では、このまちにどんなコンテンツが加わるといいかと考えたときに、エッジのきいた出版物にふれられると、まちのクリエイティビティが高まるんじゃないかと思ったんです。本屋の経験はありませんでしたが、僕自身が好きで続けられることだと思い、独立出版系の書籍やマガジンに特化した本屋とカフェをつくることにしました」
こうして26歳のときに「栞日」をスタートさせた菊地さん。以降、「栞日」にはさまざまな人が集い、情報が舞い込むようになった。3年目には店舗を現在の場所に移転。旧店舗では松本への移住希望者をターゲットにした宿「栞日INN」をはじめ、また別の建物で日用品がテーマのギャラリー「栞日分室」をオープンするなど、次々と業態を広げていった。
そんな菊地さんのもとを「菊の湯」の三代目、宮坂賢吾さんが訪ねたのは2020年5月のこと。「銭湯を閉めるので、その後の建物の活用方法についてアイデアがほしい」と相談をもちかけたのだ。
「栞日」が立ち上がった頃から菊地さんの活動をウォッチしていたという宮坂さん。きっと良いアイデアを出してくれるに違いないと期待を抱いていたところ、菊地さんは意外にも「僕がやるので銭湯を続けましょう」と即答したのだ。
当時のことを宮坂さんはこう振り返る。
「ここ数年どういう風に閉めようかとばかり考えていたので、継いでもらう発想はありませんでした。どこの銭湯を見ても、家族経営が当たり前。誰かにやってもらうにしても、儲かっている状態で渡したいのが本音だと思うんです。お客さんが少なくなっていく実感があるなかで、きつい仕事を好意だけで継いでもらうのは、申し訳なさ過ぎてできません。だから菊地くんにも『やめておいたほうがいい』と止めたし、経営上の数字も見せて諦めてもらおうと思ったんです」
菊地さんはなぜ「自分がやる」と即答したのだろうか。
「毎日、近所のみなさんが開店前から『菊の湯』に集まる様子を向かいの栞日から眺めていて、この風景はなくしちゃいけないなと思いました。でも、宮坂さんが決断するに至った想いもわかるので、安易に『続けてください』とも言えない。だから僕がやろうと思ったんです。宮坂さんから数字も見せてもらい説得されましたが、こうすればできるんじゃないかと僕も収支計画書をつくって宮坂さんを説得し返しました(笑)」
「菊の湯」は建物も土地も宮坂さんが所有しているため家賃はかからず、家族経営のため人件費もセーブできる。お風呂も湧水を使うため、日々の営業においては、ガス代だけが大きな出費という状態だった。それでも、定期的に訪れるボイラーの交換や、度重なる設備の修繕のことを考えると、当時の経営状態では先細りが目に見えていた。
そこで菊地さんは全国の先行事例をリサーチ。脱衣所に化粧水を常備したり、休憩スペースをつくったり、手ぶらで来れるようなサービスを用意したり……これまでの常連客に加え、若い世代に銭湯の新しい価値を開けるような取り組みを考え、コストより上回る収益をあげられる計画を提案した。
「最初の相談から2ヶ月近く『やります』『やめておいた方がいい』という問答を繰り返していましたが、続けるための理由を考える菊地くんの熱意に、次第に私も“残せるものなら残したい”と思うようになっていきました」
と宮坂さん。
「宮坂さんに感謝したいことはたくさんありますが、一番はまだ営業している時に相談してくださったこと。だからこそ『菊の湯を残そう』という選択ができました。これが廃業した後だったら、もう一度銭湯を始めることは困難だったと思います」と菊地さんも語る。
こうして、2020年7月。宮坂さんから菊地さんへ、「菊の湯」の事業を承継することが決まった。
「よろしくね」に込められた常連客の想い
継業が決まり、まず菊地さんたちがやったこと。それは、近隣への報告だった。「まずは、『菊の湯』が暮らしの一部になっているお客さんに伝えたい」という想いから、菊地さんと宮坂さんの連名で町内の回覧板で報告し、銭湯内にも掲示した。
8月半ばにはSNSでも発表し、「湯屋チーフ」を募集。1週間という限られた期間だったが、なんと13人もの応募があった。年齢は20代前半が多く、全員が市外在住者。地方への移住希望者やローカルに興味がある人など志望動機はさまざまだったが、菊地さんが選んだのはイラストレーターを本業にする女性だった。応募者のなかで唯一「銭湯の仕事がしたい」という動機ではなく、このまちで暮らす側の視点から「壁新聞を描きたい」という理由だったことにひかれたそうだ。
そして、菊地さんに運営がバトンタッチするのを機に、館内の改装も行った。クラウドファンディングで資金を募り、毎日通うお客さんのためにもできるだけ最短・最小限度の工事を実施。今までの「菊の湯」の良さを残しつつも、「栞日」らしさを打ち出した銭湯へと生まれ変わった。
2020年10月15日、「菊の湯」は無事リニューアルオープン。「若者が引き継ぐということで、これまでのお客さんが離れてしまわないか心配していた」という菊地さんだったが、14時のオープンとともに、続々と常連客が姿を現した。
「僕と宮坂さんが玄関でお客さんを出迎えていたんですが、常連のおばあちゃんから『よろしくね』って言われたんです。最初はどういう意味かわからなかったのですが、何人かのお客さんに言われて、『私たちのお風呂の運営をよろしくね』という意味だったんだ、とわかりました。そういう意味でも、やはり『菊の湯』を残してよかったなと思いましたね」
継いだ後もゆるやかに続く技術承継
菊地さんへと受け継がれた「菊の湯」だが、実は現在も名義は宮坂さんのままになっており、菊地さんは業務委託というかたちで運営を手がけている。「菊の湯」の設備は申請当時の基準に沿ったものになっているため、経営者の名義を変更すると、現行の基準に見合った設備に改修しなければならず、膨大な費用がかかってしまうからだ。
さらに、湯の仕込みは今でも毎日宮坂さんがサポート。複雑な配管設備を使いこなすのは技術を要するため、トラブルがあったときの対応方法など実践のなかで教えてもらいながら、菊地さんたちに銭湯を運営するための技術承継も現在進行形で行っている。
「菊地さんに任せると決めた時から、僕も出来る限り応援しようと覚悟を決めました。今後の目標は『宮坂さんが来なくても大丈夫』って言ってもらうことかな」
と宮坂さんは笑う。
「菊の湯」がリニューアルオープンして3ヶ月。これまで1日60人を下回る客数の日もあったが、今では平均110人へと増えた。常連客に加え、新たに20〜30代の利用客も訪れるなど、コロナ禍にもかかわらず好調なスタートを切っている。
とはいえ、今後も「菊の湯」を持続可能なものにしていくためには、引き継いで終わりではなく、次の世代のことも考えていかなければならない。「銭湯を運営するための技術を宮坂さんから一つずつ承継し、今の基準に満たす設備にできるよう資金も蓄えていきたい」と、菊地さんはすでに先を見据えている。
「全国の銭湯のほとんどが家族経営で、家族以外が承継する例はまだまだ少ないのが現状です。選択肢は多様だということをたくさんの方に知ってもらうことで、銭湯のある風景を残せたらと思っています。これからも僕たちの動きを見ていてほしいですね」
古くからの常連さんも、一見さんの若者も、ひと風呂浴びて、笑顔になって帰っていく。自分の目と手が届く人たちを大切にするサードプレイスとしての銭湯。「菊の湯」の継ぎ方、続け方にぜひ注目してほしい。
継いだもの:菊の湯
住所:長野県松本市中央3-8-30
TEL:0263-32-1452
営業時間:14:00〜23:00