継ぐまち:新潟県佐渡市
継ぐひと:加登仙一
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:高橋マキ 写真:日下部優哉 編集:浅井克俊(ココホレジャパン)
全国最年少蔵元はなぜ誕生したか
新潟港からジェットフォイルで1時間、カーフェリーなら2時間半。佐渡島は、日本海で一番大きな離島だ。全国唯一の朱鷺(とき)の生息地としても有名で、現代にも朱鷺がのびのびと暮らせるほどにきれいな水を育む雄大な山と、その裾野に広がる豊かな田園風景を残す。そして佐渡島には、朱鷺と同じくこの水と米というふたつの恵みを受けて地酒造りを行う5つの酒蔵がある。
そのうちのひとつ「天領盃酒造」が、島外の若者・加登仙一さんに継がれたことは、日本酒業界の大きな話題となった。2018年の春、当時24歳だった加登さんには、以来メディアに登場するたび「全国最年少蔵元」という代名詞がつく。閉鎖的で保守的なイメージの強い日本酒造業で、なぜ、親族でない20代による継業が実現したのだろう。
佐渡島の天領盃酒造は、明治28年創業の酒造と、江戸中期創業の酒造が合併し、昔ながらの酒造りをしていたのがルーツだという。その後、最新の製造設備を導入して「佐渡銘醸株式会社」となったのが昭和58年。バブル前夜、東京ディズニーランドができた年のこと。
「佐渡銘醸は、日本で最初にコンピューター化した蔵として、大量生産・大量消費時代の波に乗ったようですが、平成20(2008)年に民事再生法を受けて倒産。他県の大手酒造会社2社により経営再建を託されたのが天領盃酒造でした。さらに約10年後、その天領盃酒造が廃業寸前で売りに出たんです」
加登仙一さんがこの物語に登場するまでの間、ざっと半世紀余り。日本酒の消費量も酒蔵の数もどんどん右肩下がりする時代に、多くの人が時に手を差し出し、手を携え、そして野心に燃えて酒造りをしてきたが、その火もいよいよ燃え尽きる。そんな状況だったのだろう。
「僕が、もうちょい早く大人になってればなあ……とさえ思いましたね(笑)」
語り口調は一貫してクール。でも、ところどころにミレニアル世代特有のやさしさを見せる、平成生まれ。10年分の累計が約1億円を超えていたという赤字を背負った再建の立役者!という勝手なイメージで会いに行くと、拍子抜けするほどさわやかで軽やかな風体だ。
新卒で社会人になって2年目の春からM&A情報をあたりはじめ、全国15件くらいの酒蔵をピックアップして、実際に足を運んでみました。その中で、秘密保持契約を行ったのが5社ぐらい。財務内容などの資料を見て、ここしかないと決めました」
大学では国際文化学を学び、新卒で証券会社に入社した加登さん。酒造りのことは何も知らないのに、どうやってピンポイントで天領盃酒造に白羽の矢を立てることができたのか。
「自分の強みは財務を見る目しかなかったから、数字で見るしかなかった。決め手になったのは、5社の中でダントツで財務内容が「悪かった」からです」
財務内容がズタボロで、商品ラインナップがそろっていない、そして後継者がいない。わたしたちにはどう考えてもデメリットにしか思えないこれらの条件が、継業に乗り出す決め手になった。
世界の仲間に誇れる酒をつくりたい
20代の加登仙一さんを日本酒を出会わせたのは、大学時代にスイスに留学した時の経験だった。
「いろいろな国から集まる仲間と話をしていると、料理や政治経済やお酒の話題を通して、みんな、お国自慢をするんですよ。これが僕にとってはとても不思議な経験でした」
ビールが一番だ、テキーラだろ、いやいやワインだよ。そんな他愛もない会話を加登さんは黙って傍観していたけれど、次第に、そこに交われない自分に苛立ちを感じるようになったのだという。なぜなら、日本の政治経済にも歴史にも文化にも、それまでまったく興味を持って接してこなかったからだ。
「成田空港の近くで生まれ育ったので、幼いころから、バスに乗ってもスーパーに行っても、英語韓国語中国語が流れているのが日常でした。それで、海外に行きたい、国際文化を学びたいと思って留学したのに、そこで語るべき日本文化に目を向けたことがなかったことにはじめて気がつきました」
負けず嫌いな性格。「じゃあ、日本酒って、どうなんだ?」と興味を持ちはじめ、帰国後、日本酒専門のバーに足を運んでみて驚いた。
「大学生にとって、お酒といえば居酒屋の安酒。日本酒は頭が痛くなるというネガティブなイメージしかなかったんです。だから、専門店ではじめて飲ませてもらった日本酒はまったく別物で、そのおいしさに感銘を受けました」
縄文時代からの長い歴史があること、口噛み酒の記録や、神事や文化とのつながり……知れば知るほどに奥深い。でんぷんの糖化と糖分のアルコール発酵、これら2つの発酵が同時に進む「並行複発酵」が日本酒造りの特徴だというのもユニークだ。こんなお酒は、世界中のどこにもない。これこそ、自分が日本人として誇るべきアイデンティティ。
「あの日の仲間たちに自慢できる!そう思いました」
ゲームみたいに人生を攻略していく
大学3年生の思考する未来は、おおむね単純で純粋だ。「よし、日本酒で起業しよう」と思い立った加登さん。調べると酒造免許が必要なことがわかった。ところが「免許があればいいんだ」と思いきや、酒税法で日本酒の製造免許を得るためには必要な条件がいくつかあり、それらを満たして新たに製造免許を取得することは非常にむずかしい、という現実に直面する。実際に過去何十年も免許がおりていない。
「あきらめたわけではありませんでしたが、無理だ、と思いました。ちょうど就活のタイミングでもあったので、起業・独立したときに活かせる財務や経営面を学べる証券会社に就職しました」
様々な分野の企業経営者を相手にする営業の仕事は楽しかった。「どうやってお客さんをつくるかという戦略ゲームみたいだった」と彼はいう。将来起業したい、酒造りをやりたいということは周囲に打ち明けていたので、ある日、取引先の経営者からアドバイスを受けた。「免許が取れないなら、蔵を買い取ればいい。そうすれば酒が造れる」。証券会社でM&A(Mergers=合併 & Acquisitions=買収)の話はよく出るのに、なぜ気づかなかったのか。目から大きなウロコがポロリとはがれ、翌日から、加登さんの戦略ゲームは次のフェーズに入る。
東京で証券会社の仕事を続けながら、休日になると当時の天領盃酒造のオーナーのところに通う。3年分、10年分の事業計画書を何度も書き直し、日本政策金融公庫と地元の銀行の共同融資という形で資金を集めてM&Aが成立した。天領盃酒造に決めて調印するまで、その間、なんと半年というスピーディさ。仲介業者は入れず、自身でスキームを考えたというのも驚きだ。
「購入金額は、自己資金ゼロの24歳が出せる金額じゃありません。土地勘もないので、まずは銀行がどこにあるのか調べるところから始まりました(笑)。でも、なにしろ10年赤字続きで廃業寸前の会社ですから、はじめはどの銀行にも見向きもしてもらえませんでしたね」
そこで彼が目をつけたのは、佐渡市が「有人国境離島振興法」に守られた「特定有人国境離島地域」であるという特異性。
「国に手厚く保護されているのに、実際は18歳になったらその7割は島を出て行くといわれています。人口はどんどん減っていて、完全逆ピラミッドが形成されている。そこで、Iターンや地方振興といった視座を盛り込んで、有人国境離島振興法に基づいた事業計画書に作り直したんです。これが、銀行に振り向いてもらう糸口になりました」
人口減少が進む国境離島地域の無人化を防ぎ、国境離島を保全していくことを目的に平成28年に制定された10年間の時限立法。有人国境離島地域のうち、地域社会を維持するために早急な居住環境整備が必要と認められる29市町村71島が特定有人国境離島地域として指定される。
「特定有人国境離島地域」
加登さんにとって、当時の天領盃酒造の財務状況は、オーナー会社と従業員が離ればなれでいろいろなことに目が行き届いておらず、古い慣習のままに多額の経費が計上されていたために赤字がふくれてしまっているように見えていた。自分が何か特別なことをしなくても「無駄な経費を全部削るだけで、赤字がなくなるはず」。
「僕の目から見れば、光らせることしかできない会社。最短距離で利益を出せる会社だということは、明白でした」
夢を賭けた「事業承継ゲーム」を、こうして次々と攻略してきた加登さんが、眠れなくなるほどの不安を感じたのは、むしろ株式譲渡契約を締結する「調印式」を終えたあとだったという。「ゲームじゃなくなった。本当にこの大金を借りなくちゃいけない」。もう、机上の数字遊びじゃなくなったのだ。
僕らの世代の酒づくり
もともと、佐渡とは無縁な千葉県成田市に生まれ育った加登さん。証券会社を辞めて単身佐渡に渡り、酒蔵を継業するいう息子の報告に対して、自らも経営者である父は、ひとこと「やりゃぁいいじゃないか」と答えたという。
「印象に残っているのは、母のほうです。苦笑いしながらため息をついて『あんたもか、』といったんですよ」
てっきり「あんたも(お父さんと同じ、経営者になるの)か」の意味だと思ったら、そうじゃなかった。「あなたは知らないと思うけど」と母から聞かされたのは、母方の実家の話。岩手県の大槌町の母親の生家は、味噌醤油の醸造蔵だったのだ。加登さんが生まれる前にすでに廃業していたので、聞かされていなかったという。
「おじいちゃんが農大を出ていたのは知っていたけど、まったく初めて聞く話でした。まさか『あんたも醸造するのね』の意だとは(笑)」
千葉の都会っ子を遠く離島の酒蔵に招き寄せたのは、醸造家のDNAだったのかーー。ちょっとしたこぼれ話だったが、クールすぎるほどクールに「数字だけをみて蔵を買った」と語る加登さんの考え方の根底には、実はしっかりとあたたかい血が通っていることを証明するようなエピソード。
とはいえ、旧天領盃の赤字を招いていた「数字の無駄」のなかには、接待交際費、交通費、販売促進費などだけではなく、多すぎる人件費も含まれていた。従業員にとっては居心地が良かったはずのふるい慣習や給与体制に、蔵元としていきなり非情な大鉈を振るうことになる。もちろん、反発の声が上がった。
「僕についてこれないんだったら誰でもやめていい、とまで言いました。もし全員辞めても、大量にタンクに眠っている在庫を売れば、僕ひとりくらいなんとか養えるだろう、と考えました。いつも、最悪の事態を考えて、それでも黒字になるかどうかを逆算しています」
辞めた人もいたが、新しい若手のメンバーも増えた。なかには、前職での同僚や、SNSを見て蔵人を志願してきた若者もいる。「たとえば年間の販管費を1,200万削減すると、粗利で考えると6,000万円の売り上げに相当するんです」。現在3期目、売り上げはまずまず。計算書以上ではある。「人事も体制も、2年でまったく違う会社になったと思います」。
ここまで体制を改革しながら、それでも「天領盃酒造」という看板は変えなかった加登さん。
「M&Aしたら屋号を変える人もいるけれど、僕が継いだのは「天領盃酒造」なんです。今でも、代表的なお酒は?と聞かれたら、迷いなく、昔ながらの「天領盃」と答えます」
「天領盃」の名は誉れ高く、江戸時代に、佐渡が幕府直轄地である「天領」だったことに由来する。佐渡では「あれでしょ」といわれる天領盃ブランドは、これからもしっかり守り続ける。一方、島外に向けてのブランド力を上げていくためには、新しい銘柄で勝負していく戦略だ。佐渡の歴史を継いだことをしっかりリスペクトしながらも、新しい銘柄には自分なりのアイデンティティを備えたいという意欲がある。
「僕が天領盃酒造を継業しようと決めたもう一つの理由は、お酒の選択肢が2つしかなかったこと。つまり、観光向けにはお土産用(大吟醸と純米大吟醸)、地元用(本醸造と普通酒)と絞られていて、現在市場で主流となっている純米酒、純米吟醸がごっそり抜けていたんです。それならば、僕らがその売れ筋のラインナップを整えれば売り上げは上がる。ハードルは高くない、と考えたんです」
継業したのち2ヶ月間佐渡を離れて、広島県にある酒類総合研究所で酒造りの理論を学んだ。同時期に研修を受けた「相原酒造」(広島県呉市)5代目の相原章吾さんと意気投合し、1ヶ月間、歴史ある相原酒造の仕込みの現場に入らせてもらうという経験も積んだ。そうやって、経営をしながら酒造りも学び、2019年5月には、自身のブランドといえる『雅楽代』を発表した。女性書家に書いてもらったという、軽やかに踊るようなロゴも印象的。
「雅で楽しい代(とき)と書いて、うたしろと読みます。天領盃酒造の住所である「加茂歌代」からいただきました。佐渡に流刑された順徳天皇に島民が歌を詠み、天皇がその歌を気に入った褒美として土地を与えられた、といういわれがあるんですよ」
加登さんのようなスタイルは、蔵元(酒造のオーナー)自らが現場で日本酒をつくる「蔵元杜氏」と呼ばれる。
江戸時代中期以降の日本酒業界は、1年の半分は農家としてはたらいて、冬の酒造期のみ雇用される「杜氏集団」に支えられていた。しかし、社会の近代化にともない、蔵が企業になり、蔵人が従業員となっていった現代において、年間を通じて、しかも社会保障制度を整備して専属杜氏や複数の蔵人を雇う企業形態は、蔵の経済的課題でもあるのだ。
「タンク責任仕込みにもトライしています。これは、蔵人がひとり1タンク自分で責任を持って酒造りを行うというやり方です。仕込み配合や温度経過などは僕が指示をしますが、問題点はこことここ、良いところはこことここ、と伝えた上で「より良いお酒をつくってください」というんです。各蔵人の底上げができると思いますし、そういったチャレンジの中から次の責任者をつとめる人材が出てきたらいい」
「誰でも好きなようにつくったほうが、楽しい」という加登さん。「僕が気づいていない問題点を見つけ出してくれるかもしれないし、解決してくれるかもしれないから」。杜氏という親方一強ではないものづくり。酒造りの体制も、酒の味わいも、多種多様な可能性にチャレンジしたいから。
「天領盃酒造は大きさの上限を決めているんです。まずは、できるだけ少ない人員で、よい酒をつくること。1年に千石の生産を目標にします」
一石(いっこく)は一升瓶で100本分を表す単位。千石というのは昔からのひとつの目安で、「お酒造りに適した冬の季節(半年)に働いてつくれる、ひとつの蔵のお酒の量」とされている。なぜ上限を決めているのだろう。
「これより多く生産しようとすれば、必然的に、それだけ労働時間が長くなるんです。(昔ながらの理論にのっとって)千石の目安を達成したら、次は蔵を増やす、人を増やす方向ではなく、さらに質を上げる、生産性の上がる設備投資をして従業員の負担を減らすといったことに注力したいと考えています」
より大きくより、よりよくを求めたい。
生まれてこのかたずっと右肩下がりの日本を生きるミレニアル世代の考え方やはたらき方は、これからの社会の指針、ニューノーマルになっていくだろう。日本の新しい時代は、もう醸されはじめている。
継いだもの:酒蔵
天領盃酒造株式会社
住所:新潟県佐渡市加茂歌代458
TEL:0259-23-2111