創業60年。義父から継いだ縫製所の行く末を悩んで
技術があっても儲からない…そんな声をものづくりの現場で耳にすることがあります。技術が利益に結びつきづらい産業構造に加え、新型コロナウイルス感染症、原材料の高騰などの影響で、ものづくり事業者の多くが静かに廃業の道を選んでしまうかもしれません。
津山市で、長年培った職人の経験と縫製技術で、一つひとつ丁寧な手仕事で鞄づくりを続けている津山市唯一の鞄メーカー、有限会社末田工業所も大きな岐路に立たされています。
末田工業所は、高級皮革等を使ったバッグ製品を独自の加工技術で製造し、銀座のセレクトショップや百貨店で扱われるブランドのOEM製品の製造を長く手掛けてきました。また、5年前から岡山県のデニムを使った初のオリジナル商品「KOROKU」の製造販売もスタートしています。
しかし、その矢先に襲った新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、OEMの受注は1/3に落ち込み、KOROKUの販路開拓にも苦戦。社長の末田平さんは、自身の年齢と先に見えない経済状況への不安から廃業を考え始めました。
「残せるものなら残したいが、この市況の中、事業を再生させるのはそう簡単なことじゃない」自分の人生そのものと言ってもいい会社の行く末に思い悩む中、末田さんは、会社の譲渡による事業再生に一縷の望みをかけることにしました。
津山の鞄づくりの歴史を今に受け継ぐ唯一の会社
津山の鞄づくりは戦後に遡ります。
レースの編み物が盛んだった津山を訪れた外国人バイヤーが、撚糸を使ったバックの生産を提案。バックはアメリカへと輸出され、飛ぶように売れたといいます。
1ドル=360円だった固定相場を背景に、地域の一大産業として発展し、変動相場への移行後も成長を続け、最盛期の昭和48年頃には、21社で年間20万個を生産。約2万人の雇用を抱えていたそうです。しかし、円高など時代の変化により、産業は徐々に衰退していきます。
一方、末田さんは、撚糸バックの最盛期の中、新たな事業展開を目指し、問屋から提案された皮革でのバック生産に挑戦するため、職人を目指し上京します。職人の技を目で盗んだり、問屋から渡されたサンプルのバックを解いたりしながら、ほぼ独学で皮革の縫製技術を学びました。
「最初の10年はつくっても難があって売れなかった」と末田さん。それでもあきらめず学び続け、目利きのバイヤーも納得する技術を身に着けるに至ります。
本格的な鞄メーカーとして歩みだした末田工業所は、編み物のバック産業の衰退を乗り超え、津山市で唯一の鞄メーカーとして、今日も鞄をつくり続けています。
自分でつくったものを売る面白さと販路開拓の難しさ
オリジナル商品「KOROKU」の開発は、OEM製造の利益率の低さに課題を感じたことにはじまりました。アパレル業界の構造的課題でもある下請メーカーの低利益体質からの脱却を目指した取り組みは、ものづくりの楽しさの再発見につながりました。
「自分が考えてつくったものが、売れていくのは面白い」と末田さんは目を輝かせます。
長年、問屋から指示されたデザインの通りの製品をつくってきた末田さんにとって、一から自分で考え、デザインし、作り上げたKOROKUへの思い入れはひとしお。デニム生地でも自立するしっかりとしたつくり、機能性と耐久性の高いきちっとしたデザインなど、末田さんのものづくりへのこだわりが詰め込まれています。
末田工業所の未来を託したKOROKUは、地元百貨店や津山市のふるさと納税の返礼品として採用されています。ふるさと納税では順調な売上をあげる一方で、メーカーとして製造に注力してきたため、販売のノウハウやネットワークをもたないことから、独自のEC販売や販路拡大に苦戦をしています。
販路を拡大し、事業再生へ
事業の再生をお願いするにあたり、株式はすべて譲渡する予定です。
また、譲渡後も末田さんが一定期間は会社に残り、技術の承継や取引先の引き継ぎを行うことを想定しています。
事業の継続と再生に向けた最大の課題である販路を拡大する営業力やアイディアを持つ事業者様、独自の販路を持つ小売店様などに、末田工業所の技術と津山市の鞄づくりのDNAを託すことができればと思います。