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2025.01.20

奈良県・曽爾高原で50年続くトマト栽培。新しい可能性を切りひらく元銀行マンの挑戦

連載「継ぐまち、継ぐひと」

継ぐまち:奈良県曽爾村

継ぐひと:中野展宏(のぶひろ)

〈 この連載は… 〉

後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。

取材・文:野内菜々 写真:鶴留彩花 編集:ココホレジャパン

奈良県東北端に位置し、三重県に隣接する曽爾(そに)村。西側には岩肌が雄々しくあらわになった屏風岩など迫力あふれるダイナミックな景観、東側にはススキの大海原で有名な曽爾高原が広がる。関西屈指の風光明媚な景観に魅せられ、人口1,300人弱(※2024年11月現在)の小さな村に、1年を通じて年間50万人の観光客が訪れる。

秋の曽爾高原。山一面のススキがキラキラ光り、風にそよぐ風景は、息をのむ美しさ

総面積の約90%が森林で、かつては林業が主産業だった。しかし、安価な外国産材が輸入されるに伴い、材木の需要は低迷。後継者不足も相まって衰退の一途を辿っている。

もう1つの基幹産業である農業については、平均標高400メートルの、夏は涼しく冬は厳しい寒さの気候条件をいかして、平野部ではほうれん草やトマトといった高原野菜の栽培が行われてきた。

トマト栽培のはじまりは約50年前。最盛期には20軒ほどのトマト農家がいたが、こちらも過疎化と高齢化による後継者不足の影響を免れず、現在は数軒ほどに減ってしまった。そのうちの1軒が中野展宏さんで、就農6年目「畑のあかり」の屋号でトマト栽培に取り組んでいる。キャリアをうかがうと、元銀行マンで農業経験はゼロからのスタートだった。

ものの価値、土地のあり方を考えるきっかけになった銀行マン時代

中央部右あたりに中野さんのハウスがある。現在2,000平方メートルの畑を管理

中野さんは大阪府堺市で生まれ育った。就職活動を始めた2010年はリーマン・ショックの影響を受け、採用難の時代だったが、なんとか地元の銀行に就職が決まった。銀行窓口業務を経て、個人顧客向けに資産活用の提案営業に従事した。投資や保険商品の販売に加えて、不動産会社と連携して土地の有効活用を持ちかけることもあった。

当時は奇しくも、円高と株安に拍車がかかった時期。身近な世間を見ると何も動いていないのに、世界情勢や国の体制が変わるだけで、モノやお金の価値が大幅に変遷する世界に、中野さんはある種の怖さを覚えるようになった。

「円の価値が不安定になっているなか、日本の食料自給率が39%でいずれは食料難になるかもしれない。それなのに、農地を埋めて、10年ローンでアパートを建てて、必死に返済。次は修繕のローンを組んで、次世代に相続し、資産圧縮のために対策する……。この一連の流れは、いったい何が目的なんだろうって疑問に感じたんです」

このとき、中野さんの脳裏に子どもの頃の記憶が引き起こされる。自宅は堺市にありながら緑豊かな場所で、田んぼと畑に囲まれていた。自宅裏には祖父が管理する田んぼがあり、友達とキャッチボールをしながら視界に入る、トラクターに乗って農作業に励む祖父の姿は、中野さんの心に残る原風景である。

だが、今の実家周辺は、大手スーパーやドラックストアが乱立する無味乾燥な風景に変わってしまった。

「土地って、ほんまはどうあるべきなんやろう」

悶々とした気持ちのままに迎えた入行5年目、転機が訪れる。大学時代の友人が、淡路島の漁師町で地域活性化に取り組むのをインターネットで目にし、「生き生きして、なんだか楽しそう」と釘づけになった。このとき漠然と食料を自家栽培できるようになりたいと思い、友人の姿に重ね合わせた。農業を営む30代の自分の姿を想像すると、胸が高鳴った。

朗らかなキャラクターの中野さん

よし、農業をやろう。けれど、どうやって、何から始めたらいいのだろうーー。中野さんはひたすらインターネットで情報収集をした。なるべくなら愛着ある地元大阪で、と調べた。すると、農業の世界に飛びこむ手段として、農業法人への就職と都道府県の農業研修制度という2つの選択肢が見えてきた。

その後も調べていく中で、曽爾村の情報に目がとまる。実家がある堺市から車で1時間ほどの距離にあり、まずは双方を行き来しやすい立地条件に魅力を感じた。2016年1月に開催する移住フェアに同村が出展する情報を得て、イベント当日、真っ先にブースを訪ねた。

中野さんはそこではじめて「地域おこし協力隊」の制度を知る。活動期間は3年間。その間は農業研修を受けながら地域活動に取り組めることに加え、家賃や車の支給など手厚い資金面のサポートを受けることができる。

さらに曽爾村の農業研修の場合、トマトもしくはほうれん草の農家への受け入れ先があらかじめ決まっていることも、中野さんにとって大きな魅力だったのだとか。

「未経験でもやっていけそう。まずは実際に農業を体感しなければ」

中野さんは即決した。2月に面接を受けて合格。性格を考えると一度に多品目は難しい、1年で1回の作付けという理由だけでトマトを選んだ。

銀行マンとしての5年のキャリアに幕を下ろし、2016年4月1日、晴れて曽爾村第2期地域おこし協力隊として活動をスタートさせた。

失敗できない、1年に一度のトマト栽培

大玉トマトを無農薬・化学肥料なしで栽培。昨今の課題は酷暑対策だそう(画像提供:中野さん)

中野さんがトマト栽培の指導を受けたのは、トマト農家歴28年(※2024年11月現在)の寺前健史さん。「曽爾高原とまと」を次世代に引き継ぐことを目的に、村の農家で結成した曽爾村トマト部会の一員でもある。

寺前さん自身もまた元サラリーマンで、不況下で転職活動中だった30歳から家業のトマト栽培を手伝い、そのままトマト農家として今に至っている。

「中野くんにはまず、農地を粗末にしたらあかんよと伝えました。農地は農家の職場で、地主さんが先人から引き継いできた大切な資産やと。信頼関係の上で農地を預かっている、この重みを理解しないとなにもはじまりません」

例えば、草刈りを怠るなど、手入れや管理の不行き届きは農地を貸与する地主に対して非礼となる行為。自分が目指すスタイルを貫くだけではなく、曽爾で暮らし、守ってきた人たちの言葉に耳を傾けることの重要性を説いた。

休む間もなくさっそく農業研修がスタートする。協力隊任期3年のうち2年間は、寺前さんのトマト畑でつきっきりで学ぶ。

トマトは、他の果菜類とは異なり、1年でたった一度の作付けしかできない。3月に種をまき、育苗と管理を経て7月から11月まで収穫、シーズンが終わるとハウスを片付け、1月には翌年のための土づくりを行う。つまり、1年間、ほぼ休みなしで作業を行うのだ。そのうえ、病害虫や災害対策などのリスクを負いながら、手間と時間をかけて結実させ、出荷する。生きていくために、失敗はできない。

中野さんは必死でメモをとった。日々の作業を表面的になぞるだけでは、理解は追いつかない。最盛期の夏場は、トマト苗の高さは3〜4メートルをゆうに超える。その数2,500本以上。1日たりとも、サボることはできない。

目まぐるしく時間が過ぎるなか、寺前さんが手を施すことにどんな目的や意味合いがあるのか、手を動かしながら、自分の頭で考え続けた。

「寺前さんからは、一般的なトマト栽培の基礎を、手とり足とり教えていただきました。同時に、有機農業にも関心があったので、化学肥料を使うにしてもその効果効能を知った上で、有機肥料とはなにがどう違うのかも体系的に学びたくなったんです。本などで知識を得たり、有機野菜を作る農家さんから話を聞きたく、オフシーズンには岡山や北海道など県外に出向いたり。生産者の集まる場にもなるべく顔を出すようにして、意識してつながりを持つようにしました」

2年を通して、トマト栽培の一連の流れを学んだ。

自分はどんなトマトを作りたいのだろう

(画像提供:中野さん)

自分はどんなトマトを作りたいのだろう…。研修中の2年間、中野さんはずっと自問自答を繰り返していた。

1年目に、車で移動販売する八百屋さんに母の紹介で出会った。どういう野菜を置いているのかと聞くと、減農薬野菜や化学肥料不使用の有機野菜だという。研修で教わっている栽培方法では取り扱ってもらえないと瞬時に悟った。ならば、ここに出荷できるトマトを作るにはどんなやり方で育てればいいのだろうと、先輩農家を訪ねて話を聞き、とにかくがむしゃらに知識を得た。

2年目の研修の合間に、台風で使えなくなったという寺前さんが所有するハウスの半分を借りて、まだ経験もないなか、農薬と化学肥料を半量を減らしたやり方で試験的に栽培した。実ったトマトをその八百屋さんに食べてもらうものの、スパッと説明ができない自分がもどかしかった。

心のどこかで「無農薬、化学肥料不使用のトマトを作りたい」と願っている自分に気づいたのだ。

「農業で生きていくために、稼がないといけないことは頭では理解しています。でも僕は、話を聞くなかで、有機肥料を使って農薬を使わない、”効率の悪い”やり方で農業をするひとたちに惹かれました。出会うひと、出会うひと、適度に力が抜けていて、おおらかで。かっこいいなと感じたんです。だから同じものを作りたくなったのかもしれません」

中野さんは、農薬と化学肥料を使わないトマト栽培を目指していこうと決めた。

地域おこし協力隊3年目、独立に向けて

シーズンが終わると、ビニールを取って骨組みだけにする

3年目は、新規就農者としてスタートを切るための準備の1年間を過ごした。

農地の確保、ハウスなどの設備や資材投資と、すべてを一つひとつ揃えなければならなかった。そこで、持続可能な農林業の実現を目的に2016年に新設された、曽爾村農林業公社の新規就農者支援を活用した。

ハウスは同公社のリースハウス事業を利用。村が一括購入したハウス施工費の3割分を10年間で返済する。必要不可欠な道具類は購入した。支柱2,500本や収穫用コンテナ40個ほどは、協力隊の活動資金や村の助成金で賄えた。資金に関しては、地域おこし協力隊の制度を最大限に利用させてもらったという。

トラクターは、数年後を見越してJAから融資を受けて1台購入。それも、知り合いから教えてもらったトラクター購入補助事業を活用した。

新規就農者が最も苦戦するのは、農地の確保だ。当初は中野さんもなかなか農地が見つからなかったが、ここで手を差し伸べてくれたのは師匠である寺前さんだった。村内で顔が広く信頼が厚い寺前さんの信用があり、600平方メートルの農地を借りることができた。

しかも、ただ遊休農地を借りるだけでなく、トマト栽培に適した日照条件や方角、農業用水路の位置関係などを考慮したうえで、最適な農地を手配してくれたのだとか。

「農地の選定は最低限の収量確保にも関わることですから。寺前さんの、技術だけでなく総合的な知見に助けてもらい、感謝しかないですね」

農業をやると決めて突っ走った3年間が、あっという間に過ぎた。2019年3月31日、地域おこし協力隊の任期を終了した。

翌日からは、いよいよ農家として独立。どんな状況下でも航海の安全を祈る灯台のように、不安定な時代のなか、自分の生きる道が、誰かにとっての灯りになり、道しるべになってほしい。そのために1年に一度、畑に真っ赤な灯りをともしていこうと宣言する。

屋号は「畑のあかり」。2019年4月、中野さんはトマト農家として大きな一歩を踏み出した。

農閑期の収入は、加工品販売と出稼ぎで

畑のあかりの加工品3本柱。トマト缶、ドライトマト、トマトジュース (画像提供:中野さん)

独立後は曽爾トマト部会に所属して共同出荷をしながら、色や形で規格外になったトマトを、有機野菜を取り扱う販売店にも営業し、マルシェ出店で直接消費者に販売している。

シーズン中のトマト販売以外に、トマト缶やドライトマトなど、日持ちする商品づくりにも積極的に挑戦する。

すべてトマトがある時期に商品にする必要があり、ピーク時は大忙しだ。最盛期の夏は、夜な夜なドライトマトを仕込み、休む間もなく時間が過ぎ去っていく。

畑のあかりのトマトを知ってもらうために、さまざまな場所に出向いてひとと交流する。その積み重ねで、ファンの心をとらえてきた。毎年購入してくれる固定客もつき、ドライトマトは作れば作った分だけ売れるヒット商品に育った。

2024年4月「畑のあかり」は5周年を迎えた。曽爾トマト部会を卒業という大きな決断をして6年目がスタート。今年は初めて、飲みきりサイズの小瓶に詰めたトマトジュースを1,000本製造してお披露目した。定番商品がようやく揃ったなと安堵する。農閑期の冬場は収入の足しにするため、和歌山のみかん農家へ数ヶ月出稼ぎに行く。

「やればやるほど奥深くてわからないトマト栽培。お金はカツカツだけど、辞めたいとはまったく思わないですね」と中野さんは笑う。

曽爾村に来て9年。農業の担い手になるという強い志があったわけではなく、農業がおもしろそうだからやってみたという軽やかなスタイルは今も健在だ。中野さんの生き方は、誰かの生き方にそっと灯りをともしていくのだろう。


継いだもの:トマトの栽培技術

Instagram https://www.instagram.com/hatakenoakari/

ECサイト https://hatakenoakar.thebase.in/

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