継ぐまち:新潟県三条市
継ぐひと:斉藤翔、田中美央
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:マルヤマトモコ 写真:涌井正和 編集:中鶴果林、古橋舞乃(ココホレジャパン)
インド原産のウコンを、豪雪地帯で栽培する農家との出会い
日本有数の金属加工の町、新潟県三条市。隣接する燕市とともにモノづくりが盛んな“燕三条”とも呼ばれるエリアだが、実は農業も活発な地域。特に南東部に位置する下田地区は棚田を含む田んぼや畑、牧場が広がり、キャンプやトレイルを楽しめる山や渓谷も広大だ。そして、冬には特別豪雪地帯に指定されているほど雪が積もる地域でもある。
この雪国の地で、インド原産のウコンの栽培を成功させ、確立した人がいる。山崎一一(かずいち)さん(享年92歳)。沖縄からウコンの種芋を仕入れ、晩年まで約30年にわたり栽培を続けてきた人物だ。
その一一さんからウコンの栽培技術を、そしてウコンの種芋そのものも受け継いだのが、地域おこし協力隊として下田地区にやってきた二人の若者だった。
「一一さんは、優しくて強い人でした」そう振り返り、頷き合う斉藤翔さんと田中美央さん。
二人は、一一さんからウコンの種芋を分けてもらって栽培し、そして商品化・販売までを手掛ける合同会社を立ち上げた。
2020年につくった会社は、その名も「合同会社カズイチ」。
設立から3年を経た今、ウコンとの向き合い方、承継の意識に大きな変化の時を迎えている。挑戦と失敗、新たな気づきと抱く思い…様々な経験を経た二人にとって「受け継ぐ」とはどのような意味を持つのだろうか。
理想の暮らしを求めて下田に辿り着いた、“よそ”からの若者
「私たち、多分前世で兄弟だったんですよ」と冗談を言い合う二人とも、農業とは無関係の環境で育った。
新潟市出身の美央さんは、新卒で旅行会社に入り4年勤めて退職したのち、世界一周の旅へ。そこでスローライフを実践している人と出会い、自分で栽培したものを食べる暮らしに憧れを抱くようになる。
旅を通じて広い世界を見た結果、やっぱり新潟が好きで新潟で働きたい、新潟を自分の言葉で語れるようになりたいと思い至った美央さん。憧れのライフスタイルを目指して、三条市下田地区の地域おこし協力隊に着任した。
翔さんは青森県出身。共通の友達を通して美央さんと出会った時は、群馬県でフリーのデザイナーとして働いており、時々“何でも屋さん”として農家へ手伝いに行ったりしていた。下田地区に暮らしていた美央さんのところに遊びに行った際に下田地区が気に入り、地域おこし協力隊の募集を知って移住を決断。「家に帰るとポストに近所の人が野菜を入れてくれていたりするんです、って美央さんから聞いて。そんな下田地区の人の温かさや、ものづくりの町・燕三条という風土に惹かれました」
先に一一さんと出会ったのは、美央さんだった。2016年に、地域おこし協力隊の業務として取材で一一さんの元を訪問した際、ウコンのインパクトと、数ある取材先の中でも一一さんが特に熱心に話してくれたことで興味を惹かれた。
「当時一一さんは90歳近くて足も悪く、作業が大変そうだったので手伝いに行くようになったんです。作業中に『育てるのって難しいんですか?』と聞いたことがきっかけで、実際に育ててみるかと種芋をもらい、地域おこし協力隊の隊員たちで管理している畑で栽培を始めました」と美央さんは振り返る。
そして美央さんが栽培をはじめた畑を、美央さんの後に協力隊員になった翔さんが引き継ぐことになる。
「全く栽培方法がわからないので、それこそウコンとは何かというところから一一さんに話を聞きに行くようになりました。一一さんも指導や収穫の手伝いに来てくれて。当初は他の野菜の栽培も考えていましたが、一一さんにもウコンそのものにも、自然と一番思いが入っていったんですよね」と振り返る翔さん。
「なんでウコンを育てているかっていうと、一一さんの存在があったからだよね。食べておいしい野菜でもないのに、なんで作っているんだろう」と美央さんも笑う。
「もう一度やり直し」が利かないウコン栽培の怖さと面白さ
農業を生業にするのであれば、トマトやキャベツのような知名度の高い野菜の方が成長が早く生食もでき、調理法も広く知られているので、ビジネスとして利益を見込みやすい。しかし「ウコンのような種や株を代々受け継いできた品種にとても興味があるので、芽が出たりするとかわいくて(笑)。逆に草に囲まれているとかわいそうに思えてきたりもして。多分それがウコンを育てるおもしろさなのかな」と翔さん。
ウコンは、一般的な農業の仕組みである種苗会社から種子や苗を毎年購入して栽培するのではなく、成長した株を種として保存して翌年植えるという、独特の方法をとる。一一さんも、沖縄の農家から種芋を分けてもらい、育て、二人もまたそのウコンを受け継ぎ、自らの畑で採れたウコンから翌年の栽培を実践している。
一方で、収穫したウコンがそのまま翌年の種芋になるからこその難しさもあるようで、「1年辞めたら、作れなくなっちゃうんです。それって怖いし、だからこそなおさら面白さを感じるんです」と翔さんは話す。つまりウコンの栽培は1年失敗しただけで、途絶えてしまう危険性も孕んでいるのだ。
さらに原産地がインドのウコンは0度以下になると枯れてしまうため、豪雪地帯の下田地区で越冬するには土の中での保存は難しく、冬の時期は土から掘り起こして温度管理をしながら保存する必要がある。
種を購入して育てる手法も一つの農業のあり方として肯定した上で、二人は敢えて種芋を継ぐウコンを豪雪地帯で栽培することを能動的に選択している。
「ウコンの商品を作ることだけを考えれば、たとえば沖縄からウコンを仕入れて、加工することもできます。でも、やっぱり自分たちの畑で種芋を継いできたものを使いたいんです。だから、種を仕入れて大規模に出荷する、という経営は最初から考えていません」
継いだ先にある、自分たちらしい営み方とは
二人が一一さんに継業の意思をはっきりと伝えたのは、会社を設立するときだった。きちんと事業としてウコン栽培を承継してやっていきたい、社名に一一さんの名前を使わせてほしいと相談し、了承を得た。
もともと一一さんは二人に継いでほしい、継ぎ手を探しているなどの話をしたことはなく、「来年でやめる」と毎年言っていたそう。「自惚かもしれませんが、やめようと思ったタイミングで私たちが色々聞きにくるようになって、『負けられないから作る』と言ってもくれていたので、いい刺激になれたのかなとも思うんです」と振り返る美央さん。
取材をきっかけに出会い、手伝いをしながら学び、自分たちの畑を持ち、独立した二人。一歩ずつ継業のステップを踏んでいったかのように見えたが、承継してから継続する難しさはここからだった。
「一一さんのことや下田地区のことを大事にはしながらも、ウコンそのものの魅力で評価してもらえるようになりたいなと思っています」と美央さん。
そう思うきっかけが、会社設立後に作った商品「CRAFT POTION(クラフトポーション)」にある。
ウコンをはじめ、数十種類の薬草を使ったノンアルコールシロップで、クラウドファンディングを利用して販売したところ、160人以上の支援を受け、プロジェクトは成功した。
しかし、ここで二人は「成功して良かった」に留まらない、様々な気づきを得ることになる。
「ウコンは苦味もありつつ香りがいいんですが、CRAFT POTIONでは本来の香りと味を引き出しきれませんでした。一方で私たちの取り組みや一一さんとのエピソードに共感し、応援の気持ちで購入してくれた人がたくさんいて、嬉しくありがたかったです。
しかし同時に、ウコンそのものとして評価されるべきだったのではないかとも思ったんです。ウコンといえば『健康に良さそう』というイメージが持たれていると思いますが、『体にいいから』でなく、『おいしいから欲しい』と感性で選んでもらいたいんですよね。今後もウコンの栽培を継続していくために、ウコンのおいしさを伝えることは大切だし、そういうビジネスがしたいなって」
その想いの芽生えは、「一一さんから承継」というフェーズからもう一段階先へ、ステップアップしている証拠のように感じられる。
継続していくための、大きな決断
前へ進みながら、悩みながら、2023年に二人は大きな決断をした。
「実は法人はやめることにしたんです」
起業はウコンの栽培から商品化・販売まで生業として成立させたいという思いがあったと同時に、起業支援金の対象となれたことも一つの要因ではあった。今の時代、起業のハードルは下がっているが、法人として維持していくには法人税や手続きなど、多くのランニングコストやリソースがかかる。
「売上に対して税金や経費の負担が大きくて、会社は解散することにしたんです。目先の支援金をアテにするのは本質的に間違いで、中身が大切だと思って。身の丈にあったことをやっていこうと、今は切り替え時期です」と二人は、襟元を正す。
そんな二人が今、ウコンの香りの良さを伝えたいと挑戦している商品が「チャイ」。信頼するレシピ開発の専門家の手を借りて、しっかりと香りが引き立つレシピを開発中だ。
ほかにもウコンで作ってみたいものは?と問いかけると「ビール!」と即答する美央さん。
「苦くて香りを感じられる商品ということで、相性がいいんじゃないかと思います。畑の作業後に飲みたいですね」と話すと「飲みたいねー!そういう生活したいかも」と翔さんも賛同する。
ただプロダクトを開発するだけではなく、ライフスタイルも含めたウコンとの生き方を語る二人の弾むような空気には、愛情が溢れている。
これからの商品化を語る中で、翔さんが言葉を選びながら無意識下にあった感覚をポツリとつぶやいた。「やりたいことは『ウコンを育てる』ことだから、今していることも、これからやりたいことも農『業』じゃないんですね」
その言葉に、美央さんも「農業をやろうという感覚で取り組んだんじゃなくて、ただウコンを育ててみようと思ったんです。だからやっていることは『ウコンを育てる』。農業という言葉は、後からついてきた感じなんですよね」と答える。
そんな微細な感覚の価値観を共有する二人が出会ったことが運命のようでもあり、冒頭で「前世は兄弟だったかも」という冗談も、ストンと腹落ちする。
ウコン栽培を継業し、生業にできる仕組みを作りたい
「自分たちの取り組みが『地域おこし』とか『思いを受け継ぐ』といった文脈で語られることに、だんだん違和感を感じるようになっていって同時に『継業』はしっくりきたんです。次の世代にも継いでもらいたいし、それがずっと続くことを願っているので。
一一さんがいて、一一さんがウコンを仕入れた沖縄の農家さんがいて…一番最初がどこだかわからないんです。ウコンが日本に来たのは400年前、インドから中国を通って沖縄に来たらしいという説があって。つまり日本に持ってきた人がいたんですよ、船で。それが古来種のおもしろさであり、これからもずっと続いてほしいなと思います」と翔さん。
二人は現在、複業としてウコンを栽培している。美央さんは教育施設で食農の仕事を、翔さんは燕三条地域の産業拠点「三条ものづくり学校」で企画やディレクションを担当。それぞれが“もう一つの仕事”で培った技術や経験は、ウコンの栽培やPRにも反映されている。
ウコン栽培だけでは収益化が難しかったためウコン栽培と別の仕事を複業で実践してみたものの、ウコン栽培は特に収穫と収穫後の作業が大変なので別の仕事をしながらでは大変だという。だからこそ「次に継ぐ人のことも考えると、やっぱりウコン栽培自体が生業として成り立つようになることが理想ですね」と二人は話す。
環境や気持ちの変化と正面から向き合い、挑戦を重ね、時には難しい決断も下しながら、大切な人のウコンを後世へとつなごうとする二人。継業したからこそ直面する壁も、いまはじっくりと耕すフェーズなのだろう。
継いだもの:ウコンの栽培技術
Instagram:https://www.instagram.com/kazuichi_ucon/