地域医療の未来をつないだ「十二社クリニック」。医療の後継者課題に、全国に先駆けて取り組む「福島県医業承継バンク®」 | ニホン継業バンク
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2021.12.14

地域医療の未来をつないだ「十二社クリニック」。医療の後継者課題に、全国に先駆けて取り組む「福島県医業承継バンク®」

連載「継ぐまち、継ぐひと」

継ぐまち:福島県川俣町

継ぐひと:三宅弘章(十二社内科外科院長)

譲るひと:角田理恵子(元・十二社クリニック院長)

〈 この連載は… 〉

後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。

取材・文・写真:江藤純 編集:浅井克俊、中鶴果林(ココホレジャパン

地域医療の維持を担う「医業承継バンク」

全国で高齢化が急激に進む中、地域医療の中核を成してきた「町の診療所」の存続が危ぶまれ、待ったなしの問題として迫ってきている。

東日本大震災などの影響で、福島県では他県に比べて医療機関の減少が急速に進んでいるのが現状だ。その一助として開始された試みが、開業を希望する医師と、後継者がいないなどの理由で譲渡を希望する医療機関をマッチングする事業「医業承継事業(医業承継バンク®)」だ。福島県より事業受託を受けた福島県医師会が、2018年度よりこの事業に取り組んでいる。

新しい試みに付きものの障害をクリアしながら、5件(2021年11月現在)の承継が成立し、成立直前の基本合意に達している案件もあるという。その幸先のよい滑り出しを土台に、高齢化する開業医への周知、バンク登録者のさらなる獲得を目指している最中だ。

医業承継バンクの本格稼働の口火を切った一例目となった、旧・十二社(じゅうにしろ)クリニック院長の角田理恵子さんと、角田さんからクリニックを引き継ぎ、「十二社内科外科」院長となった三宅弘章さんに、承継へ協力し合った当時をお聞きかせいただいた。

「十二社内科外科」病院名の通り、地域の鎮守である十二社神社が診療所の向かいにあり、その前を福島県内陸部(中通り)と太平洋沿岸(浜通り)を結ぶ街道がのびる

体力の限界を感じる中、医業承継バンクの存在を知る

かつて養蚕が盛んで、絹織物の町として栄えた山間のまち・川俣町。田園が広がるのどかな風景の中に「十二社内科外科」はある。

「まちの中心部からは離れていますが、街道沿いで近隣地区の境界とも近く、地の利はいい場所なんです。ですから川俣町の方だけでなく、他の地区からも多くの患者さんがいらっしゃいました」

柔かい笑顔を浮かべながら診療所の位置関係を丁寧に語ってくださるのは、この地に診療所を立ち上げた、元「十二社クリニック」院長の角田理恵子さん。

診療所は、角田さんの父が開局した特定郵便局(その後、角田さんの兄が局長を引継ぎ、郵政民営化後は日本郵便の直轄管理へ移行)に隣接している。医大に進んだ角田さんと弟さんのどちらかがこの地区で開業してくれればという願いもあり、広く購入してあった土地だった。角田さんは同じ医大出身の医師と結婚すると、ご主人の勤務地である茨城県つくば市へ。育児とともに、検診センターに従事する勤務医として多忙な毎日を過ごしていたという。

角田さんは、近くの診療所に出向してきた福島女子医専(福島県立女子医学専門学校)出身の若い女医さんに憧れ、医療の道を志したという。「昔の医者は『様』がつく存在ですから、その白衣姿がかっこよかった。診ていただく時は緊張して行ったものです」

「主人が山形県米沢出身で故郷の病院で勤務することになり、1991年、約10年ぶりに私も福島へ戻ることになりました。故郷で診療所を開くことは父の願いもありましたが、開業医なら自分のペースでできるかなという思いも大きかったです」

帰郷後は、県内病院の勤務医として開業の準備を重ね、1994年に開院。地域住民には「(郵便)局長の娘さん」として親しまれ、開院当初から患者の獲得に苦労はなかったと振り返る。

年を追うごとに診療所経営の医療法人化や、手狭になった診療所の改築など医療体制も整備し、地域にはなくてはならない医療機関として成長。子どもたちもそれぞれ独立し、角田さん自身も古希を目前に迎え、診療所の閉院をうっすらと意識しはじめた矢先、直近の課題として取り組まなくてならない出来事が起きる。

「近隣で開業されていた私と歳が変わらない先生が、亡くなってしまったんです。私も体力が落ちてきて診療日を減らしていたんですが、その先生の患者さんがどっと押し寄せて、過労死の危険すら感じましたよ(笑)時代も平成から令和に変わり、区切りをつけるには、いいタイミングと思ったんです」

他にも閉院へ気持ちが傾く要因が重なった。原発事故後、子育て世代は町外に避難して小児の患者は減り、逆に残された高齢者世帯や近隣自治体の避難区域から避難してきた患者さんのメンタルケアの比重が増加。また、同じ医療の道を歩み始めた娘さんは当時1歳と3歳の子育ての真っただ中。自身の子育て時代のように子どもに寂しい思いをさせてまで、開業医を継いでほしいとは言えなかったという。

しかし、閉院するのも一筋縄ではない。診療と並行して患者さんに説明をしながら、それぞれの患者さんに合った医療機関に引き継ぐために、600通近い紹介状を書くなど最後まで業務に追われながら、十二社クリニックは2018年3月に約25年の歴史に幕を下ろすことになった。

最後の診療を終えてスタッフのみなさんとの1枚。閉院後も、総合病院の非常勤医師、地元企業の産業医など多忙な日々を送る。「今はコロナ接種のお手伝いもあったりで、忙しい毎日ですね」

「閉院後は地域の方に申し訳なくて、あまり外に出たくなかったですね。先生、今何してるの?と聞かれるとね…」

と少し困り顔で語る角田さんからは、地域医療に責任を持ち、全身全霊で取り組まれたお人柄が窺える。関わった患者さんの未来ために最後の力を振り絞る最中、医業承継バンクの概要を耳にする。

「元川俣町町長さんが私の幼なじみで、ここの診療所にも通院されていました。私も、もうそろそろ…というお話をしたら、県議経験もあり県政にも詳しい方なので、こんな事業も始まるんだよと医業承継バンクのことを教えてもらったんです」

地域に惜しまれながら閉院して1年半後。福島市の開業医から見学の連絡があったのは、最後の大仕事として、まだ借りていた駐車場の舗装を剥離して地主へ戻す準備をしている時だった。

ニーズに合ったマッチングと情報源としての魅力

「私は山歩きが趣味で、街道を通って山に遊びに行くたび、このくらいの規模の診療所で地域医療をしたいと思っていたんです」

68歳とは思えないバイタリティーあふれる声量と笑い声とともに当時を語ってくれたのは、角田さんから十二社クリニックを承継し、現在「十二社内科外科」を営む院長・三宅弘章さんだ。

三宅さんは会津若松市内の病院で外科医として勤務後、兄が歯科を開業していた福島市で、1997年に診療所を開業した。外科・内科を近所で診てくれる、地域に欠かせない診療所に成長したが、3年前に持病が悪化。それを機に、医大を卒業してまだキャリアの浅い息子さんを呼び寄せ、自身は息子さんを補佐する立場となる。

「息子が戻ってくると体調が回復して、退屈になってしまって(笑)検診医が足りない病院で週一でアルバイトをするんだけど、それも不完全燃焼でね。外科が専門でしたが、診療所の診察科目として内科もできるように勉強したから、医者のいない地域や離島にでも行こうかなと考えていたが、これだという所は見つからなかった」

十二社内科外科の三宅弘章院長。山歩きの他にも、出店するほどの腕前のコーヒーなど多趣味。スタッフさん曰く「私たち以上にバイタリティーのある、やさしい先生です」とのこと

そんな時に福島県医師会の事務方から聞いたのが、立ち上がったばかりの医業承継バンクの話だった。バンクに登録して情報を見ると「十二社クリニック」の施設名もあり、よく見かけていた場所で開業できるのではと話を進めたくなったという。

「実際に閉院した施設を見学してみると、開腹などの大きな手術はしないことにしていたので、広さは十分。それと角田先生が医療法人(※)として、診療所を経営されていたことも、ここを選んだポイントでしたね」

三宅さんは兄が理事長である医療法人での開業を条件に、金融機関から融資を受けた経緯があり、川俣町で診療所を開院するこの機会に、経営的な裁量が広がる医療法人化も考えていたという。

「十二社クリニックとして、まだ医療法人格があることを知り、県へ法人解散の届け出をする寸前だったのを角田先生に譲渡してもらったんです」

角田さん、三宅さん両者とも医療法人の譲渡は、もちろん未経験。相場感や必要な手続きについては分からなかったという。そこで角田さんが長年法人の会計を任せていた会計事務所が運営する開業コンサルティング部門【(社)医療福祉介護研究協会】に、法人の譲渡価格や土地や建物の賃料を設定してもらったという。

「実は三宅先生の前に承継希望の先生がいて、お手紙をもらっていたんですよ。周囲のお話を伺いながら、もう少し様子を見ようとお断りしたんです」(角田さん)「私の評判も聞きましたか?悪いことはできないね(笑)」(三宅さん)

「その会計事務所は、私が勤務していた病院の会計も担当していたので、私も角田さんもつながりがあったんです。ですので、事務的なすり合わせは円滑に進みました。提示された価格を見た時は、そういうものかと思ったくらい。初めてですしね」

三宅さんはそう振り返る。自身が理事長に就くと息子さんや娘さんに新たに理事に就任してもらい、診療所の名称も小児科のイメージから、三宅先生の専科である「内科外科」に変更。それに伴い定款を変更して、保健所に診療所開設を申請した。

一方、診療に欠かせない医療機器に関しては、建物・土地や法人と同様に承継されたのだろうか。

「『時間が勝負』との協会のアドバイスに従い、高額な機器に関しては、閉院の一ヵ月以内に業者に引き取ってもらいました。残りの機器は、町内の総合病院の院長を務める弟に引き取ってもらって、診療所は閉院後すぐに、がらんどうになりました」

前診療所から引き継いだ備品は、角田さんが特注で作った待合室のソファーくらいだという

「話が整った段階で、内装も新しくして医療機器も購入しました。二度目の開業準備を行う感覚です。銀行から融資も受けましたが医師会が調整くださり、県から医業承継に対しての補助金も出て、医療機器の購入費や建物の改修費に充てることができました。また他にも職員採用や高齢者採用、養育手当などの補助金制度もあり、活用できそうです」

大手の医療機器の業者と取引がないなど、情報ソースの少ない医師にとって、医師会を通じて助成金や地域の情報を得られることは、医業承継バンクを利用したことによるもう一つの大きなメリットだったという。

※運営の透明性を確保したうえで、地域に良質な医療を提供するよう務めることが法律で明記されている、非営利性が求められれる法人格。日本の医療機関の約35%を占める。個人所得税の減税、給与所得控除の適用、事業承継、分院や介護分野など事業拡大しやすいなどの利点もあるが、事務処理の煩雑さ、出資金に対しての配当がないなどのデメリットもある。

医業承継のポイントは「やはり人柄」

それでは、譲渡者と承継者の間に立つ福島県医師会は、どのようなことに留意して医業承継を進めているのだろうか。

「医者という人種はね。みなさんが思ってるより、ナイーブなものなんです。医者仲間や地域にどう思われるか気になる人も多い。特に譲渡希望者の大多数である高齢の開業医の胸の内は、不安だと思いますよ」

医師会の医業承継の担当理事である石塚尋朗さんは、患者に語りかけるよう内容をかみ砕きながら語る。

石塚尋朗さん。アメリカでガンの研究者として活躍したのち、三代続く病院を父から承継して地域医療の一翼を担う。「医業承継は、大切な田畑を譲るのと同じ。お金や技術より一番大切なのは、受け継いだものをいかに大事にしてくれるかなのです」

「私と同じ年代である70歳以上の医者は、電子カルテなどの新しいシステムを苦手とする方も多い。まず医業承継バンクの仕組みを、高齢の医師のみなさんに抵抗感が少なく理解していただく必要があります。また自治体には部署移動がつきもの。医業承継に関わる現状のスタッフに、経験年数に関係なく共通の認識・スキームを理解してもらうためにもマニュアルは必要だと考えています」

医業承継バンクを今後発展させるには、制度の運営者や関係者のニーズをくみ取りながらのマニュアル作りと、利用者に対する丁寧な不安の払拭という両輪が重要だという。

「まず懇親会のようなグループ単位で、直接会って話をする機会を多く設ける。お互い合致してマッチングすれば、半年程度一緒にお試しで仕事をするのもいいかもしれません。広報宣伝活動には、SNSなどのデジタルツールを用いてもいいですが、まずは草の根です。医師会や家族、医師の奥様など、近縁隣者への手厚い周知が特に大切だと思います」

石塚さん自身も仮に承継するのであれば、財力や技術力より前に自分の積み上げた物や患者さんを託せる「人柄」を重視するという。

「いい人がいれば、今すぐにでも譲っていいと思っています。その判断の指針となる成功例と失敗例ともに情報公開が必要です。もちろん希望者のプライバシーは厳に注意しなくてはなりません。難しい舵取りが迫られますが、これからの医療を考えると、大切に成長させていかなくてはいけない制度ですね」

舵取りを実際に現場で担う、県医師会の事務局で医業承継担当・伊藤靖史さんは、現状をどう捉えているのだろうか。2021年の実績である2件のマッチング成立、2件の基本合意と、幸先のよいスタートと思える。

「いやいや、まだまだです。このペースを基礎に実績を重ねていけば、光が見えてくるかな?という段階です。ただ、何よりも全国に先駆けて、理想的な一例目が成立していることが、いい流れを作っている大きな要因だと思います」

「諭より証拠」。これほど説得力があるものはない。目下、マッチングの成功例をヒストリー形式でのHPや紙媒体での紹介など、さらなるバンク利用者拡大への広報として利用していく予定。まだ歩き始めた制度だが、地域医療の存続に繋がる次のステップも準備しているという。

伊藤靖史さん。「予期せぬ障害と言えば、譲渡側と承継側が一緒に診療する場合は、医師会の役割が『職業紹介所』の扱いになると、県や労働局から指摘を受けてしまったことです。紹介所として施設申請をしたり、私も資格を取得したり大変でした」

「医業承継バンクもそうですが、どのように医師不足を解消するかということが命題なんです。ですから、県内の承継希望者に限らず、全国の地域医療を志す若手の勤務医さんにも、県内での開業募集を始めています。大手ポータルサイトに出稿し、アクセス数を順調に伸ばしています」

医療施設数のピークだった2009年から、130施設もの医療機関が東日本大震災後に激減、現在60歳以上の医師が半数以上を占める福島県。その流れに対抗するべく医師会は、着実に慎重に事業を継続していくと伊藤さんは力強く語る。

診療の合間のお昼休みに、お話を伺った角田さんと三宅さんに話を戻す。

2020年に開院した十二社内科外科。1年半ほど閉院期間があった影響で、開院当初は患者数は少なかったが、現在は腰や膝など外科診療が受けられる診療所として、新たな患者さんも獲得している。

開院時に行われたセレモニー。マスコミも多数訪れて、医業承継の実例として全国に知れ渡るきっかけになった。医業承継バンクの導入を検討している他県から視察の依頼があるという

「内科は別の病院に診てもらって、外科はうちに相談に来られているようです。内科もできるんだけどね(笑)私を頼りに来てくれた患者さんを、丁寧に診ていく。その根底は変わりません。角田先生が長年ここでしっかりその土台を築いてくれてたから、自分の使命に集中できるし、ここに居られる。そう思っています」と三宅さんが話すと、

「地域の総合病院では、外科の常勤医師は少ない。地域の診療所で外科を扱ってくれる三宅さんのような先生はそういない、私は恵まれている」と角田さん。

最後に医業承継バンクに登録された決断を、改めて角田さんに振り返っていただいた。

「よかったと思っています。医師会と県が間に入ってくれる安心感がありました。もし個人で承継者を探していたら、もっと視野が狭くなって、多少の不満な条件も飲み込んでいたかもしれません。何より医療が必要な患者さんのことを考えられる余裕ができたことは、有難かったです。この診療所は私のものだったけど、それ以上に地域の皆さんのものになっていますからね

「近所に信頼できる病院がある」。それだけで心が落ち着くことだと思う。全国あまたある地域の診療所の中でも、その存在の未来が繋がった川俣町の事例は、現状では幸運な例だったかもしれない。地域と医療を結ぶ始まったばかりの試みが、幸運な例でなく「よくある事例」として、福島県だけでなく全国で運用できる制度として成長して、ひとつでも多く心が落ち着く医療体制が存続してほしいと、切に願うばかりだ。

「三宅先生は、会合などでお見かけする程度でした」(角田さん)「私もお顔を存じ上げる程度。こうなるとはね」(三宅さん)旧友のように会話が弾む中、診察を待つ患者さんの車が続々と駐車場を満たし始めた

継いだもの:十二社クリニック

住所:福島県伊達郡川俣町大字羽田字十二社5-1

※「承継バンク」はココホレジャパン株式会社の登録商標です。

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