日本の伝統食材「乾物」をなくさないために。公募制事業承継に挑戦した「蒲原屋」 | ニホン継業バンク
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2022.03.15

日本の伝統食材「乾物」をなくさないために。公募制事業承継に挑戦した「蒲原屋」

連載「継ぐまち、継ぐひと」

継ぐまち:静岡県静岡市清水区

継ぐひと:新谷琴美

譲るひと:金子武

〈 この連載は… 〉

後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。

取材・文:前田美帆  写真:廣川かりん  編集:中鶴果林(ココホレジャパン

公募で事業承継した個人商店「蒲原屋」

1946年創業の「蒲原屋」は、昔ながらの長いアーケードが続く「清水駅前銀座商店街」の一角にある。建物は二度建て替えられたが、創業当初からずっとこの場所で営業を続けてきた。清水のまち、そして商店街の歴史を作ってきた店のひとつだ。その「蒲原屋」は、2012年、当時は全国でも珍しかった事業者名を公開して継ぎ手を募集する、“公募”によって事業を引き継いだ。

ずらっと並べられた豆類とともに、昆布や煮干し、車麩などが並ぶ店内は、乾物特有の香ばしい匂いがほんのりと漂う

「蒲原屋」の歴史は、戦後間もない頃から始まる。満州から清水の地へ戻ってきた金子さんの両親は、引揚者団体とともに食品市場「ミナトマーケット」を設立。その中のわずか戸板一枚分のスペースで始めた乾物屋が「蒲原屋」だ。連日、貴重な食料を求める人で溢れかえっていた光景は、当時5歳で店に立っていた金子さんの記憶にもはっきり刻まれている。

「蒲原屋」二代目の金子武さん。今年で79歳には見えない

「親がせっかく築いた店だから、継いでやらなきゃ申し訳ないと思った」という金子さんが「蒲原屋」に入ったのは1968年のこと。しばらく両親とともに店を切り盛りしたが、金子さんが30歳のころに父親が他界。二代目として店を継いだ。

それから約50年にわたり店に立ち続けた金子さん。3人の娘たちも全員結婚し、家を出ていた。還暦を過ぎ、いつしか「誰かに店を引き継ぐこと」を考え出したというが、それは今から20年近くも前のこと。いち早く「親族外承継」を考えたのはなぜだったのだろう。

清水駅前銀座通り商店街。静岡県内でも貴重な、アーケードが残る商店街だ

「その頃から乾物屋はどんどん減っていた。だけどうちには父親の時代からのお得意様もたくさんいる。もし店を辞めたら、そのお客さんたちが『どこへ買いに行けばいい?』って迷うじゃない。でも、年齢的にもいつまでも俺がやるわけにいかない。だから元気なうちに引き継ぐほうが良いと思って。それで銀行や商工会議所へ相談に行ったけど、当時は誰も理解してくれなかったよ

それでも金子さんは、事あるごとに第三者承継の構想を周囲に話し続けた。

そしてやっと物事が進み始めたのは、2012年。当時できたばかりの「静岡県事業引き継ぎ支援センター」の存在を知り相談へ行くと、すぐに金子さんの後継者を探す「蒲原屋プロジェクト」が立ち上がったのだった。事業承継を考え始めてからここまで、すでに5年以上が経っていた。

当時、公募による個人商店の事業承継は全国の事業引き継ぎ支援センターで初の試み。プロジェクトが始動する前、センターからは公募制にするか、非公開での募集にするかという相談もあったが、金子さんは公募制を選んだ。

「どうせ大した店でもないし、恥を覚悟でやるんだから公募制でやろう、と。それに俺は、ただ『乾物』という商品をなくしたくないだけ。それ以上何も欲はないから、今の設備からノウハウから何から、建物以外は全部あげるよって言ったの

店を買い取ってもらわなくてもいい。乾物という食文化を、そしてお客さんがやって来るこの場所を残したい。金子さんの思いは固かった。

現店主を務める新谷さんも、この「蒲原屋プロジェクト」に参加していたひとりだ。

本当に残したいものを守るために

「いらっしゃいませ」のひと声で、店内をパッと明るくしてしまう新谷琴美さん。テキパキ動き回る姿と、誰とでも分け隔てなく楽しそうに会話する姿が印象的な、「蒲原屋」の三代目だ。

「蒲原屋」三代目の新谷琴美さん。店を継ぐ前は県内企業で経理として働いていた

もともと隣町の藤枝市出身の新谷さん。「車で1時間ほどの距離だけど、清水に来ることはほとんどなかった」という言葉通り、プロジェクトを知るまで「蒲原屋」を訪れたこともなかったそうだ。

そんな新谷さんと「蒲原屋」の出会いは、静岡商工会議所主催の「女性起業セミナー」。新谷さんが「面白そう」と軽い気持ちで急遽参加を決めたそのセミナーに、「蒲原屋プロジェクト」の紹介をするため、金子さんも来ていたのだ。
セミナー後の懇親会で、お手製の金時豆の甘煮とともにプロジェクトをPRしていた金子さん。当時の様子について、新谷さんは冗談交じりにこう振り返る。

「私も軽い気持ちで偶然参加したセミナーだったし、そのときは特に『継ぎたい』とかは思ってなかったので。だから、当時の感覚としては『なんかセミナーの懇親会に豆持ってるじいさんがいた』みたいな感じですよね(笑)。でもそのとき、純粋に『お豆って美味しいな』と思ったんです。それで私もお料理が好きなので、『じゃあ買い物に行ってみようかな』と」

店を訪れた新谷さんは、品揃えの良さに感動したという。地方ではなかなか手に入らない品物も多く、「私にとってはディズニーランドに来たみたいな感覚でした。だから、もしここがなくなってしまうんだとしたら、それはすごくもったいないことだと思ったんです」。

現在の「蒲原屋」にも豊富な種類の乾物が揃っている
ふるさと納税でも人気の蒲原屋オリジナル「和ナッツ」

その後、事業引き継ぎ支援センターの担当者から「蒲原屋プロジェクトの説明会に来ないか」というメールが届いた。そのときも明確な「継ぎたい」という意思はなく悩んだが、「とにかく一回行ってみよう」と参加を決意。このときの選択が、まさに分岐点となった。

「あとはもう本当に流れでした。物事って進まないときは全然進まないけど、進むときはトントン拍子に進むじゃないですか。このときも波に乗った感覚があって、そのまま『蒲原屋』に入ったという感じでしたね」

説明会のあとは、「蒲原屋」の経営を考えるワークショップが3回にわたり行われ、毎回レポートの提出が求められた。全3回とはいえ、経済学的な視点を取り入れた本格的な内容はかなりハードだったが、「実際に店を経営する視点に立って具体的に考えられたのが面白かった」と新谷さんは振り返る。

豆を入れる箱には静岡らしく「茶箱」を使っている。これも店を継いだ新谷さんのアイデア

そうして提出されたレポートやワークショップの様子をすべてチェックし、後継者を選ぶのは金子さんだ。だが、プロジェクトがスタートした当初、金子さんが感じていたのは「このままじゃダメだ」という危機感だった。そこで金子さんは、急遽ある提案をしたという。
「(応募者には)いろんな人がいたけど、みんな甘いなと思ったの。70年の歴史を継ぐってのは大変なんだよ。簡単にはいかない。だけど応募してきた人たちは、店に来ればすぐ商売できると思ってる。でもそうじゃない、と。だったらもう一歩踏み出して、後継者に決まった人は、何年か俺と一緒に二人三脚でやろうと、センターの人に提案をしたわけ

「蒲原屋プロジェクト」には、なんと26名もの応募があった

「それでワークショップの最後に、参加者にもそれを伝えたんだよ。『いきなり一人で店をやっても、私が辞めた段階でお客さんが他へ移っちゃう』と。それじゃもったいないし、事業承継にならない。だから『すぐに店を渡すことはしない。5年間は私が教えてあげる、だからついて来い』と。それまでみんな不安だったんだろうね。そう伝えたらみんな真剣な顔つきになったよ」

店やお客さんのことはもちろん、後継者を想うからこその金子さんの提案だった。

そうして選考は進み、毎回少しずつ候補者を絞っていく。金子さんも「人材選びが一番大変だった」というだけに、候補者を絞っていくのには相当な苦労があったのだろう。そんな厳正なる審査の結果、最終的に三代目として選ばれたのが新谷さんだ。

「人がやっていないことをするのが好き」という新谷さん。公募による個人商店の承継は「全国初」という点にも惹かれた

決め手はなんだったのか。理由を尋ねると「起業セミナーのときから目に留まっていた」と金子さんは振り返る。

「(セミナーのとき)彼女は隅のほうにいたんだけど、すごく気になった子だったの。そのときはまだちゃんと話したこともなかったけどね。だからオーラなのかな。そしたらやっぱりレポートもひとりだけ期日までにきちっと出すし、内容も良かった。すごく几帳面だなと思って」

一方、新谷さんも、説明会やワークショップに参加するなかで、金子さんの独特な視点が「継ごう」と思えた理由のひとつだという。

「金子が最初に言っていたのは、『店の名前は継がなくてもいいけど、今の店舗と乾物は残してほしい』ということだったんです。普通は自分の都合で『店の名前を残して』とか『あれも残して』と言う人が多いけど、金子の場合は、何を残したくて、何を残さなくていいのかが明確だった。だからすごく珍しい人だなと。全部を継ぐのは大変だけど、それなら継いでもいいと思えました」

初代から使っている枡。金子さんは5歳の頃から店に立ち、枡で豆を計っていた

金子さんが望んだのは「蒲原屋をそのまま残すこと」ではなく「お客さんが乾物を買える場所を残すこと」、そして「日本の食卓から乾物をなくさないこと」だった。それだけやってくれれば、店の名前を変えても、乾物以外の販売を辞めても構わない。「店を残す」意味を考え抜き、覚悟を決めた人の言葉だった。

目に見えないものを引き継ぐ

後継者に決まった新谷さんの初出勤は、店が最も忙しくなる12月だった。繁忙期だけに、店の仕事もたくさんある。どんどん引き継ぎが行われていたのかと思いきや、違ったらしい。

「金子は教える人じゃないので。やっぱり世代特有の『見て覚えろ』なんですよね。だから私も最初の2年間は、言われたことに対して『NOはなし』にしようと。もちろん時には提案することもあったけど、最終的な判断は金子なので。当時はとにかく言われたことをやろうと決めてました」

何を言っても信頼関係がなければ聞いてもらえない。そのこともわかっていた。だからこそ、最初の2年は「YESだけ」と決めていたという。

「結果的には、その2年間で店や取引先のことを覚えながら、地元の商店街や商工会議所とのお付き合いも引き継いでもらえた。それが一番大きかったです。それに先代の金子は常に誠実なお付き合いをしてきたからこそ、信頼関係のある取引先も多い。自分で一から店を始めていたら、取引先を探すところから始めないといけないですから。そういう意味でもすごくありがたいことでした」

経営を引き継いだ後は金子さんと賃貸契約を結び、店を続けている

一方の金子さんも、新谷さんが「蒲原屋」に入った頃を思い返しながら、早くから事業承継を考え始めた理由のひとつに「ソフト面の引き継ぎ」の重要性/大切さを感じていたことも話してくれた。

「当時は毎週あちこちへ行ってたよ。東京の市場へ行って、豆や昆布の見方を教えたり、取引先も全部一緒に回って顔繋ぎしたり。だけど、そんなことも体が弱ってからじゃできないじゃん。単に物は引き継げても、専門的な目に見えないものは引き継げない。事業承継ってむしろそれが主だから。昔は俺だって父親の顔がなきゃ物資も買えなかったんだ。引き継ぎもそういうことだよね

取引先をはじめ、地元の関わりやそのノウハウを引き継いでもらえたことは、新たな店主となる新谷さんにとって大きなメリットになった。しかし、事業承継はもちろん良いことばかりではない。その厳しい一面についても、新谷さんはこんなふうに語ってくれた。

「メリットもある一方で、実際に経営を引き継ぐときには、店の在庫や設備のローンなども含めて引き継ぎました。しばらくはその支払いもあり苦労しましたが、良い部分も悪い部分も、両方を引き継ぐことが事業承継だと思うので。そういうことも含めて、すべてを受け入れる覚悟がなければ、事業承継は難しいと思います

「店を継ぐ」ということは、良い部分だけを引き継ぐことではない。店の歴史を受け入れ、時には自分の負担になることも含めて引き継がなければならない。だからこそ、他人の店を承継することは決して簡単ではないのだ。「事業承継には覚悟が必要」という新谷さんの言葉には、継ぐことの重みが込められていた。

「たぶんあの頃が一番バチバチだったと思う」

当初の予定では、引き継ぎ期間は5年。しかし実際は、2年を過ぎたタイミングで経営をバトンタッチ。というのも、新谷さんが空き店舗になった「蒲原屋」の隣でカフェを開業するため、国の第二創業補助金を申請することになったからだ。

補助金の申請時には「蒲原屋」の事業者も新谷さんでなければならない。そんな背景もあり、2014年、予定よりも3年ほど前倒しで、新谷さんは「蒲原屋」三代目店主となった。

その後も金子さんは従業員として「蒲原屋」に立ち続け、新谷さんは「蒲原屋」と隣のカフェ、両方の経営を担う存在になった。だが、実はそこからが大変だった。

店を継いでからの数年間は、経営のストレスで倒れたこともあったという

もともとカフェは大きく利益が出ないことを見込んでいたが、想像以上に厳しい状況が続いた。さらに、店のやり方に関して、金子さんとの衝突も続いていたという。

「やっぱり世代も全然違うので、商品の並べ方ひとつとっても、意見が合わないことはしょっちゅうでした。それまでのやり方もわかるけど、私は店に新しい世代を呼ぶためにどう改善するかを考えていたので。たぶんあの頃が一番バチバチだったと思いますね(笑)。お互いストレスが溜まっていたと思いますよ」

意見がぶつかるのも、お互いに店のためを想うからこそ。最終的には、新谷さんが隣のカフェをやめて「蒲原屋」に専念。隣の店舗には金子さんが惣菜屋をオープンし、それぞれ別の店を持つことにした。

惣菜屋「キッチン蒲原」。金子さんオリジナルの乾物を使った惣菜を販売している

「もともと金子はずっと『乾物を使った惣菜屋をやりたい』と言っていたので、私がカフェを辞めて、金子が惣菜屋をやることにしたんです。それからは基本的に各々でやっています。とはいえ、お互い隣にいるので、何かあったらこっちへ愚痴を言いに来ることもありますよ(笑)。早いうちに別々で店をやる選択をしたから、今も良い関係でいられるのかなと思いますね」

現在はお互いが必要なときに助け合いながら、それぞれ営業を続けている。料理教室やネット販売、自社商品の開発など、常に新しいことに挑戦し続ける新谷さんの様子を、金子さんも隣で見守っている。

「俺も『乾物という背骨だけは残してくれ』と言って、あとはもう彼女に任せたから。彼女のやりたいようにしてもらわないといけない。それで、彼女が困ったときに答えてあげる、アドバイスしてあげる。今だって、時には俺が商品の説明に行くこともあるけど、彼女もこれから経験を積めば、また知識も増えるだろうし。今はなかなか何もやってやれないけど、隣にいるからね。心強いと思うよ」

「ぶつかり合う」ということは「何でも言い合える」ということ。新谷さんも蒲原屋を継いで、信頼できる人に囲まれている今の環境を幸せだと感じている。

「今日も常連のおばあちゃんが通りかかって『あんた、年末に買ったお豆、うまく煮えたよ!』なんて話してくれて。店のスタッフもそうですし、お客さんも、近くのお店の方も、商店街では本当にいろんな人と関わらせてもらって、すごく幸せです。もちろん金子ともこれだけ言い合えるのは仲がいいからですし(笑)。それくらい信頼できる人間関係を周囲で作れているのは、本当にありがたいなと思っています」

「こういう写真がいちばん恥ずかしいんだよね」と笑うふたり

この10年、金子さんと新谷さんは何度もぶつかり合ったという。だけどそのぶん「蒲原屋」も、ふたりの関係も、さらに強くなったはずだ。ふたりのように、年齢関係なく言いたいことを言い合える相手は限られている。「相性がいい」というのは、決して「意見が一致すること」だけではないのだ。

その証拠に(?)、一通り話し終えた新谷さんのエプロンの紐は、その直前にお会いした金子さんと全く同じねじれ方をしていた。それに気づいたとき、その場の全員で思わず笑ってしまった。話し好きで、芯の強いふたり。どうやら似た者同士なのかもしれない。そう思うと、この日聞いた「蒲原屋物語」のすべての辻褄がぴたりと合うような気がした。


継いだもの:乾物屋

住所:静岡県静岡市清水区真砂町6-25

TEL:054-366-4354

蒲原屋ホームページ

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