継ぐまち:京都府京都市 → 滋賀県東近江市
継ぐひと:山本奈々子
〈この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:高橋マキ 写真:酒谷薫 編集:浅井克俊(ココホレジャパン)
銭湯とレトロと、ひやしあめ
京都で過ごした学生時代、銭湯でアルバイトをしたのをきっかけに、昭和レトロな瓶ジュースに出会った山本奈々子さん。「大好きな銭湯が、文化として続いていくためには、銭湯を取り巻くまわりのものも続いていかなければいけないと思った」という気づきが、全てのはじまりだった。
今、ミレニアム世代に銭湯が愛されている。デジタルネイティブ、ソーシャルネイティブな平成生まれの若者たちが、昭和レトロな銭湯文化を愛し、利用するだけでなく、自分たちの手で未来につないでいきたいと経営にまで乗り出しているのだ。関東では、東京・台東区の「日の出湯」、高円寺の「小杉湯」、埼玉・川口市の「喜楽湯」、あたりがパイオニア。ほぼ時を同じくして関西でも、20代の銭湯好きの若者が、廃業寸前の「サウナの梅湯」(京都)を継業して注目を集めた。
大学4回生の時に、その「サウナの梅湯」でアルバイトをすることになった山本さん。舞台芸術のスタッフとして銭湯の舞台を作ったことがきっかけで、銭湯好きを自認したという経緯もユニーク。脱サラして「サウナの梅湯」を継業した、湊三次郎さんに憧れた平成生まれのひとりだ。
「昭和を知らないのに、なぜ懐かしいと思うのか。今でも不思議です。銭湯という場所だけでなく、銭湯にまつわるもの全てをそのまま未来に残したい、そんな仕事に就きたいって思うようになりました」
たとえば脱衣籠を作る竹細工職人、たとえば柳行李(やなぎごおり)の職人、昭和好きの自分に果たして何ができるだろうかと考えはじめた時、「瓶ジュースも、そのうちなくなるで」と教えられた。
「銭湯に瓶ジュースがある風景をなくしたくない」
そんな使命を感じた山本さんは、京都市内に唯一残っていた瓶ジュース製造工場を訪ね、まずは「梅湯でジュースを扱いたいので卸してください」とお願いしてみることに。そこでは、「ひやしあめ」をはじめ、5~6種類の瓶ジュースを製造していた。他の地域ではもうあまりその姿を見かけることはないかもしれないが、ひやしあめとは麦芽水飴と生姜のジュースで、夏の盛りに冷たく冷やして飲むのが一般的。関西~瀬戸内地方では今でも瓶で売られている。
「はじめから『もうやめるから、3ヶ月だけならいいよ』という後ろ向きなお返事でしたが、なんとかOKをいただいたと解釈して、注文分を自分で受け取りに行くようになりました。はじめのうちは、機会あるごとに『やめないでください』と伝えていたのですが、通ってお話を聞くようになり、実情を知れば知るほど、大学生の私にも、簡単にやめないでと言えないことがわかってきました」
今でも、関西の瓶ジュースを製造する工場にはなぜか「○○鉱泉所」という、ちょっと気になる名前がついていて、古いところでは大正時代からの歴史があるという。1970年の大阪万博前後に登場しはじめる缶ジュースや缶コーヒーの普及から想像するに、瓶ジュース人気のピークはおおよそ50年前。銭湯だけでなく、駄菓子屋、喫茶店やお好み焼き屋さんで、毎日のようにたくさんの人たちに愛された時代があったのだ。それが次第に缶やペットボトルに座を奪われ、1995年の阪神淡路大震災で、多くの銭湯、喫茶店やお好み焼き屋さんが消失したのをきっかけに、卸し先を失った関西の「○○鉱泉所」は軒並み廃業していったらしい。
そんな状況下で、京都市内に残る最後の鉱泉所を訪ねるうち、山本さんはいつしか「やめないで」ではなく、「私、継ぎますよ」と口にするようになっていた。
娘になるしかない
鉱泉所の “おっちゃん” は、女子大生にとっては、ぶっきらぼうで、とらえどころのない職人気質に感じられた。「東京と大阪にひとりずつお子さんがいらして、継ごうかという流れになったこともあるらしいんですけど、絶対アカンと突き返したわ~という話も聞いたことがあります」と山本さん。孫ほど年の離れた赤の他人の山本さんが工場に粘り強く通い、本気なのか冗談なのか「継ぎたい」とまで言い出すのを、どんな思いで聞いていたのかは他の誰にもわからない。
「基本的に返ってくる答えは、公務員になれだとか、お嫁にいけ~だったけれど、根は優しくて。一時は私に継がせることも本気で考えてくれたみたいです」
ところが、食品衛生法に基づく営業許可の観点から、相続以外の理由により承継するには、一旦廃止届ののち新規で許可を取りなおす必要がある。しかしそうなると、現行の制度に合わせて、旧式の機械や工場を大幅に改修しなければならないなど、課題ばかり。京都府下で新たな清涼飲料水製造業許可を取るのはかなりハードルが高く、そう簡単に継げないことがすぐにわかった。
「娘にならんと、無理や」
それが鉱泉所の “おっちゃん” の結論。京都市内に唯一残る鉱泉所を工場ごと継業するという山本さんの夢は叶わなかった。
それでも瓶ジュースが忘れられなくて
時は少し前後するが、山本さんは京都の大学を卒業した時点で一度、鉱泉所の夢を諦めて、東京の企業に就職している。
「でも、あまりに瓶ジュースのことが気になりすぎて、週末ごとにおっちゃんのところに帰ってきてたんです。もちろん、お給料は往復の交通費で全部飛びますよね(笑)。そんな状態だったので、新卒採用してくれた会社を4ヶ月で辞めてしまいました」
何がそんなに、山本さんを惹きつけたのか。一時期は鉱泉所の近くに住まいを借り、豆腐屋で夜勤をしながら「瓶ジュース製造のお手伝いと豆腐屋の二足のわらじ」を目論んでみたこともあった。若さゆえの熱意あるアクションだったが、もともとそんなに器用なタイプではなかったようで、夜勤で体調を崩してしまい、残念ながらこの作戦は裏目に出てしまった。
「そのとき、パートナーが結婚を前提に滋賀県においで、と声をかけてくれたんです。今度こそ、本当に全部を諦めるタイミングなんだと観念して、大好きな京都をひきはらい、彼の待つ東近江市に引っ越しました」
女子大生の甘い夢の物語は、結婚というゴールで幕を引くのかーーと思いきや、瓶ジュースの女神は、まさかの後ろ髪を残した。カフェを経営しているパートナーに付き添って保健所に足を運んだ際、何となく持ちかけた相談がスルスルと通り、2018年の3月、東近江市で清涼飲料水製造業許可の免許が取れてしまったのだ。
「免許が取れた時は、さすがの “おっちゃん” も私のやる気を認めてくれて(笑)、とてもうれしかったですよ。京都ではあんなに難しいと思っていたことなので、今でも偶然かもしれない、運が良かったんだ、としか思えないんですが」
ずいぶん遠回りはしたけれど、工場そのものを継ぐことは叶わなかったけれど、瓶ジュースのレシピと作り方を譲ってもらえることになった。敬意を込めて “おっちゃん” の鉱泉所から「南」の文字をいただき、自分の名字から「山」を取って、屋号を決めた。
日本一小さな「瓶ジュース」製造メーカー、南山鉱泉所(みなみやまこうせんしょ)の誕生だ。
夢はやっぱり、工場を継ぐこと
南山鉱泉所は、現在、東近江市でパートナーが営む「ちいさな喫茶店」の一角を借りて営業をしている。大きな寸胴鍋で調合し、充填、打栓、沸騰殺菌まで製造はすべて山本さんがひとりで行う。自慢のひやしあめは、教えを請うた京都の鉱泉所御用達の麦芽糖が味の決め手。生の生姜を濾した生姜汁がたっぷり入る。
瓶に詰めたものを配達して、後日空き瓶を回収する、昔ながらのスタイル。戻ってきた瓶は、洗浄して、また詰め直してくり返し利用するリターナブル。瓶メーカーから新品を購入することもできるが、使用しているのは廃業した同業者から譲り受けた瓶がほとんどで、形もロゴもばらばらのものが、2,400本ほど山本さんの手元にあるという。
「先日も綾部市で鉱泉所が廃業されて、とうとう京都府下の瓶ジュース製造所がゼロ軒になりました。瓶の処分に困ってると聞いて、明日引き受けに行くんです」
開業して2年目となる現在は、1ヶ月200本ペースの製造。週4日で製造して、基本的に1ヶ月に1~2度の配達として、月6~7万円の収入。そんな彼女のスローペースをかたわらで見守る旦那さんは、彼女のつくる瓶ジュースを使ったメニューを、喫茶室にラインナップしてくれている。
また、同じ経営者としての目線から、「売りっぱなしのワンウェイ瓶も使えばいいのに」というまっとうなアドバイスも。
「ビジネスとしてうまいやり方じゃないことは、自分でもわかってるんです。でも、どうしても昔のやり方にこだわってしまう。がんこですよね(笑)。だけど、「レトロっぽいもの」は、なんか違う。昔のものが、そっくりそのまま続いていけるというのが、私の理想なんです」
でも、それだと自己満足で終わってしまう可能性が大きい、ということもわかっている。
「私が年を取っても、これを引き継いでくれる人が現れるように続けていくことが大切なんだ、とやっと思えるようになりました」
いったい、瓶ジュースのなにを残したいのか、なにを継いだのか。この問いが、山本さんにとっての大きな課題だ。
初めて問い合わせた日に「あと3ヶ月」のはずだったあの京都の鉱泉所は、その後も営業を続けていたが、2019年5月に廃業した。その卸し先ともご縁はあるけれど、卸し値が合わなくて、取引には至っていない。「私は、すべて手作業なので、“おっちゃん” の倍以上の卸値をつけないとやっていけないんです」。とはいえ、売値は卸し先が決めるので、ご近所の延命湯ではほぼ卸値の良心的価格で150円、京都のサウナの梅湯だと200円。喫茶室でメニューになると、「ミルクあめ」として450円。「昔懐かしの味」の値上げは、どうしてもなかなかに難しいのだろう。
おそらく日本一小さな瓶ジュースメーカー「南山鉱泉所」の現在のラインナップは、ひやしあめとみかん水。「年に一つずつ、新しい味を増やしていくという挑戦は続けていきたいんです」と山本さんはいう。今年、間もなくデビューさせるのはメロンサワー。
「京都の鉱泉所で作っていたジュースが5~6種類あって、そのレシピを一つずつ再現していくつもりです。来週は、メロンサワーを “おっちゃん” に味見してもらう予定。OKをもらえたら、保健所の成分検査、ラベルのチェックを経て、ようやく販売にこぎつけます」
教わったレシピ通りに作っても、味が決まらないこともある。きっと、ささやかなコツやポイントがあって、それこそが、長年続けてきた職人の技であり、知恵なのだろう。決して器用なビジネスマンではない山本さんにとって、マイペースで小さな商いのスタイルも似合っていると思うのだけれど、最近また、後継者を探している鉱泉所があるとうわさに聞いて、心が騒いでいるのだという。
「また、同じ壁にぶつかってしまうのかもしれないけれど、チャンスがあれば、工場ごと継業したいという夢は、やっぱり諦められていないみたいです。凝りませんねえ(笑)」
28歳。夢を諦めるにはまだまだ早い。あの時、奇跡のように後ろ髪を残してくれた瓶ジュースの女神は、彼女に次はどんな未来を見せようとしているのだろうか。
継いだもの:瓶ジュースの製造
南山鉱泉所
住所:滋賀県東近江市八日市本町7-6
TEL:070-5515-5195