継ぐまち:神奈川県逗子市
継ぐひと:佐野竜也
譲るひと:堀田陽一
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:前田美帆 写真:廣川かりん 編集:浅井克俊、中鶴果林(ココホレジャパン)
人生の節目を見守る、まちの写真館
逗子駅前から続く商店街の中に、50年以上愛され続けるまちの写真館がある。縁起良く「亀甲館」と名付けられたこの写真館は、商店街切っての老舗だ。
しかし、その長い歴史のなかで、一時は後継者問題に直面し、2014年に休業。それから約6年の時を経て、新たな店主のもと2020年12月に営業を再開した。“6年”という年月は、一時休業と言うには長すぎるかもしれない。それでもなお、変わらぬ「亀甲館」として再スタートを切ることができた裏側には、「写真館を残したい」と強く願う者同士の出会いがあった。
父と母が守り続けた「亀甲館堀田写真店」
もとの名は「亀甲館堀田写真店」。正確な創業年はわからないが、自宅の1階で父と母が営む写真館は、物心ついたときから地域の人で賑わっていた。この写真館の長男として生まれた堀田陽一さんは、一度は自分が店を継ぐことも考えたという。しかし、「自分には向いていない」と最終的には別の道へ進むことを決めた。
創業者である父が亡くなったあとは、母が店を継いだ。二代目として店を切り盛りしていた当時の姿を思い浮かべながら、堀田さんはこう振り返る。
「母は、誰にでも好かれる人でした。そのキャラクターもあって、親子二代、三代にわたって来てくださる方もいたし、口コミでわざわざ都内や遠方からいらっしゃる方もいたようです。昔は機会があるごとに、ちゃんとした写真館で写真を撮るという習慣もありましたから。当時は繁盛していたと思います」
お客さんの表情を引き出すのは、カメラマンの役目。たとえカメラの前で緊張してしまう人でも、コミュニケーションを取りながら、自然な笑顔を引き出す。そんな二代目の魅力的な人柄が、地元のみならず多くのファンを呼んだという。
当時は、家庭にカメラが普及する前の時代。ハレの日には、「亀甲館」で写真を撮ることを習慣にしていた人も多かっただろう。何年もこの場所で、多くの人の節目に立ち会ってきた。
いつしか商店街の中でも“最年長”と言われるほど、長い間店に立ち続けたが、2014年5月、母が93歳のときに写真館を休業。それから2017年にこの世を去るまでの3年間、堀田さんは幼いころから住み続ける写真館の2階で、母の介護に手を尽くした。
最愛の母が亡くなったあと、残ったのは閉まったままの写真館。母の思いと、思い出が詰まったこの場所をなくしたくない。しかし、自分には母のような写真は撮れない。堀田さんは、ふたつの思いの狭間で悩んでいた。
「ここを売って出ていくのは簡単でした。でも、実際にそうしようと考えたことはなかったですね。『なんとか残したい』とずっと思ってました。だけど、どうしたらいいのかわからないまま、ずるずると時間が過ぎてしまっていたんです」
そうして時計の針は止まったまま、さらに3年の月日が流れていった。
何かが変わるきっかけも、明確な解決策も見つからないまま迎えた、2020年。このまま時間だけが過ぎていくかのように思われた「亀甲館」の歴史は、年明けすぐに再び動き出すことになる。
「年が明けたころだったかな。近所の人がやって来て『ここを借りたがってる人がいる』と言うんですよ。聞いてみると、高級寿司屋をやりたいと。でも私はその気がなかったので、『実は写真館を誰かにやってもらいたいと思ってる』と話したんです。そしたらその人が、すぐ近くの不動産屋を紹介してくれて。そのまま『じゃあ頼んでみようか』という話になりました」
思いがけず打ち明けた、家業への思い。そこからあっという間に貸店舗としての募集が決まり、後継者を探すことになった。一度動き出した時計の針は、ここから一気に進み出した。
募集の際は、細かく条件を付けた。写真館として営業すること、「亀甲館」という名前を残すこと、店内にある年代物のカメラやレジ、先代の写真を残すこと、そして毎日店を開けること。これらはすべて、ただの間貸しではなく、これまで積み重ねてきた「亀甲館」の歴史をつなぐための条件だった。
これだけ条件が多い貸店舗もそうそうないだろう。それでも3名の希望者から応募があった。現・店主を務める佐野竜也さんも、そのうちのひとりだった。
何十年後も同じ写真館がある、その価値を感じて
気さくで、茶目っ気あふれる佐野さんは、東京都八王子市出身。かつてはダンサーとして、ショーをしながら世界中を巡ったこともあるというユニークな経歴の持ち主だ。
もともとフリーカメラマンとして活動していた佐野さんは、以前から「写真館を継ぎたい」と思い続けていたという。そう思うようになったのは、かつて働いていた古い写真館での経験がきっかけになった。
「昔、70年くらい続く横浜の写真館でアルバイトをしていたんです。ある日、記念写真を撮りに来た老夫婦のお客さんから『40年前の今日、ここで結婚の写真を撮ったんです』と言われたことがあって。それがすごく衝撃的だったんです。ここでずっと写真館を続けているから、このご夫婦はまた同じ場所で、ふたり揃って写真を撮ることができた。写真館という場所は、それだけで価値があると思いました」
しかし、その写真館があった建物も、しばらくしてなくなってしまった。佐野さんは、そのときの寂しさをずっと忘れられずにいたという。写真館は、人の歴史や思い出が残り続ける場所。自分で新たに店を構えるのではなく、今ある写真館を継いで、残したい。そう思うようになっていた。
とはいえ、なかなか継ごうと思って継げるものではない。親族経営が多いなかで、タイミングよくそのチャンスに巡り合うことは難しい。一時は、新たに自分のスタジオを構えようと考えたこともあったが、理想とする物件にも出会うことはできなかった。
そんなとき、タイミングよく舞い込んできたのが「亀甲館」の募集だった。知人から「こんな物件がある」と紹介された内容を見て、すぐに家主である堀田さんに会うことを決めた。
「見てたらおもしろい条件がいろいろあって、普通の賃貸にしては不思議な感じだったんです。だからまずは会ってみようと思って。それで実際に会って話を聞いたときに、堀田さんの『亀甲館』を残したいという思いも、僕はすごく理解できたんですよね。以前働いていた古い写真館がなくなって、寂しい思いをした経験があったので。だから、店の屋号や古いものを残すという条件も全然問題ない、むしろそうしたいと伝えました」
このとき堀田さんのもとを訪れていたのは、佐野さんで3人目。先に会った2名は、実は早々に断っていたのだという。お互いの「写真館を残したい」という思いが重なっていたのは確かだが、最終的に佐野さんが選ばれた理由はなんだったのか。堀田さんからは意外な答えが返ってきた。
「彼はラッキーだったんですよ。1番目、2番目に来た方は、ふたりとも『写真館だけでは厳しいから、飲食もやりたい』と言っていたんです。でも私は乗り気じゃなかった。だから断ったんですね。だけど、3番目に来た彼(佐野さん)も、飲食をやりたいとやっぱり言って来た。もうみんながそう言うので、これは厳しいのかなと。だから彼はツイてたんです。もし最初に来ていたら、断っていたので(笑)」
この思わぬラッキーが、佐野さんを「亀甲館」の三代目にしたというのも運命的。しかし、堀田さんの心を動かしたのは、もちろんそれだけではない。以前働いていた写真館での経験や逗子のまちに対する思い、そして古い店を大切に残したいという確かな熱意を感じたからこそ、信頼することができた。そうした思いは、応募があった3人の中では佐野さんがいちばん強かった、と堀田さんは振り返る。
それからさらに話し合いを重ねたあと、ふたりは正式に賃貸契約を結び、「亀甲館」は佐野さんへ引き継がれることになった。
「亀甲館」再スタートに向け、休業したときのままになっていた店内も内装を一新。壁にはレールを取り付けてギャラリーとしても使えるようにし、もともと先代が休憩室として使っていた四畳半の和室は、秘密基地のような小さなバーに生まれ変わった。
こうした改装作業のほぼすべてを、佐野さん自らDIYでやったというからすごい。そのぶん完成まで時間はかかったが、「亀甲館」が重ねた歴史と新しさが調和する内装に仕上がった。
そうして数か月間にわたる準備期間がようやく終わりを迎えた、2020年12月15日。
ついに約6年ぶりに「亀甲館」の扉が開かれた。同時に、それまで「亀甲館堀田写真店」だった屋号は「亀甲館写真」に変わり、三代目の誕生とともに新たな歴史のスタートを切った。
リフォームされた内装も含め、いよいよ新しい「亀甲館」の姿に様変わりした、のかと思いきや、なんと逆にタイムスリップ(!)したようなところもあったとか。一体どういうことだろう。この日のオープンには“偶然”が重なっていたと佐野さんは話す。
「入り口の扉は、もともと二代目のころは引き戸でした。それを、伝統的な写真館をイメージして、観音開きに変えたんです。そしたら、初代がやっていた50年ほど前も観音開きだったらしくて。つまり最初の姿に戻ったんですよね。これは別に堀田さんから言われていたわけでもなくて、本当に偶然。それにオープンした12月15日も、たまたま初代の誕生日だったんです。これも僕は知らずに、ただ新月の日に始めたくて選んだ日だったので。もう、偶然ばっかりです」
そんな偶然も、店の歴史や伝統を思う佐野さんだから起きたことなのかもしれない。まるで歴代店主にも歓迎されているような幕開けだった。
「残ってて良かった」がいちばん嬉しい
現在は緊急事態宣言下ということもあり、新しく併設したバーはなかなかオープンできずにいるが、写真を撮りに訪れるお客さんは少しずつ増えている。その中には、かつて「亀甲館」で写真を撮ったことがあるという人も多い。店主が変わってもなお、世代を超えて訪れる人がいるということは、それだけ地域の中で愛されてきたということ。佐野さんも日々「亀甲館」に立ちながら、そのことを実感している。
「僕が店にいると、ふらっと人が入ってきたりするんです。話すと、おばあちゃんが『私の成人式、ここで撮ったの。また撮りに来たいわ』と言ってくれたり、それこそ、ここで七五三を撮った人が今は大人になって、自分の子どものお宮参りに来てくれたこともあります。そうやって昔ここに来ていた人がまた来てくれて、『亀甲館』が残ったことを喜んでくれているのがいちばん嬉しいし、できて本当に良かったなって。『残ってて良かった』と言ってくれること、それが僕のやりたかったことなので」
今の「亀甲館写真」で使用している台紙は、先代が使っていたものとほぼ同じデザインを選んでいる。材料の関係で全く同じにはできなかったというが、当時と同じ業者に依頼し、紙質もできるだけ近いものを選んだ。それは、再びここで写真を撮るお客さんが、先代が撮った写真の横に続けて、今の「亀甲館」で撮った写真を並べられるように、という佐野さんの思いからだ。
「亀甲館」として写真館をやる以上、先代の時代から地続きでありたい。そう考えるのは、他の誰でもなく、ここに通うお客さんのためを思うから。写真館の歴史をつないでいくことは、ここで写真を撮った人や家族の歴史をつなぐことでもあるのかもしれない。だからこそ佐野さんは、自分が店主になっても、あくまで「亀甲館」の歴史の延長線上を常に歩こうとしてきたのだ。
まだまだこれから。やり続けるしかない。
「亀甲館写真」として再始動してから数か月。休業期間が長かったこともあり、「亀甲館」の存在を知らない人もまだ多い。店の現状については「まだまだ厳しい」と漏らしつつ、それでも佐野さんの表情は明るかった。
「そもそも“写真館”という、なくなろうとしているものをやってるわけなので、なかなか上手くはいかないですけど。でも楽しくやってますよ。1年も経ってないし、まだまだこれから。『亀甲館』も60年、70年やってきたなかで苦しい時期もあったと思うし、やるべきことを続けていれば、また解決策も見つけられると思ってます。写真館の価値も、きっと続けていけば伝わっていくし、残っていく。逆に、残っていけば伝わるし。だからやり続けるしかない。そう思っています」
佐野さんが未来へ残したいのは、「亀甲館」という写真館であり、「写真館へ写真を撮りに行く」という習慣そのものでもある。価値があるのに、なくなっていってしまうものは多い。続けていくことは難しいが、意地でも続けなければ、その価値は誰にも伝わらない。「亀甲館」は、継ぎ手と譲り手、ふたりの「続ける」という強い意志があったから、その歴史をつなぐことができたのだろう。
休業していた6年間、「亀甲館」という場所を守り続けた堀田さんは、取材の中で「彼に任せて正解だった」と語った。その言葉を聞いた佐野さんは「本当ですか?」と冗談めかして笑ったけれど、私たちにはその笑顔がとても嬉しそうに見えた。
継いだもの:写真館
住所:神奈川県逗子市逗子1-8-3
TEL:080-5055-2592