
雪深い津南町の中心部、役場前に70年間佇む衣料品店「丸澤屋商店」。地域の方々の暮らしを彩り続けてきたこの老舗店が、令和7年4月末に幕を閉じることになりました。店主の瀧澤さんは「このまま店を閉めるのはあまりにももったいない」と、この歴史ある建物に新たな息吹を吹き込んでくれる方を切実に求めています。
二代にわたる「丸澤屋商店」物語

丸澤屋商店は1955年、現店主・瀧澤さんの義理の父親が創業。当初は行商も行いながら徐々に事業を拡大し、現在の場所に店舗を構えました。
「最初は場所を借りて小さく始めたんです。義父は行商も行ったりしていました」と瀧澤さん。1963年に現在の建物を建て、本格的に衣料品店としての歩みが始まりました。
創業当初は、義父と義母の2人で店を切り盛りし、数名の店員さんも雇用。義母は自宅と店を行き来しながら、農業との兼業で忙しい日々を送っていたといいます。
瀧澤さんは1977年、20代で嫁いできました。「私が来た頃はバブル前で、本当に賑わっていました。お客さんが途切れることなく、レジを打つ手が休まる暇もないほど」と、目を細めて当時を振り返ります。嫁いでから47年、津南の寒さも商売の苦労も、瀧澤さんの明るい笑顔と温かな人柄で乗り越えてきたのです。
何でも揃った津南町商店街

丸澤屋商店がある津南町の商店街には、かつて多くの専門店が軒を連ねていました。
「呉服屋さんは6件ほどありましたね。靴屋さんも2軒、本屋さん、歯医者さん、蕎麦屋さん、金物屋さん、家具屋さん、酒屋さん…本当に何でもこの商店街で間に合いました」
地域の方々は歩いて買い物に来る時代。「夕食後、ほろ酔い加減で自転車に乗って来るお父さん」、「割烹着姿で風呂敷を持って買い物に来るおばあちゃんたちが多かった」と瀧澤さんは懐かしそうに語ります。
「お客さんにとっては『ここになければ別のところで買える』という安心感があったんです。1軒だけより複数店舗あることで、選ぶ楽しみもありましたね」。複数の衣料品店が並ぶことで生まれていた商店街の回遊性は、今では失われつつある「買い物の楽しさ」を地域に提供していました。
「夜も8時まで営業していましたよ。今では想像もつきませんが、商店街には夜でも人が歩いていて、飲み屋さんもたくさんありました。丸澤屋商店の地下にもバーがあったんですよ」と瀧澤さんは思い出話に花を咲かせます。人々の暮らしのリズムと商店街が見事に調和していた賑わいのあった頃の記憶が、そこにはありました。
夜行列車の仕入れの旅


丸澤屋商店の魅力の一つは、こだわりの仕入れ方法でした。現代のオンライン発注とは一線を画す、「仕入れの旅」が、店の品揃えを支えていたのです。
「岐阜に大きな服飾問屋街があるんです。年に春夏秋冬の4回、夜行列車で行って仕入れていました」と瀧澤さん。その様子は、まるで冒険のようです。「義父と夫は腹巻きの中に何百万円という現金を隠して旅立つんです。3泊4日かけて商品を選び、全て現金で買い付けていました」
その苦労は仕入れだけでは終わりません。「選んだ商品は列車で送られてくるんですが、駅に着くと何十箱という荷物を自分たちで運ばなければならない。若かった私も手伝いましたよ。キャリアカーの上にさらに荷物を積んで、何往復もして店まで運んでいました」
そして待っているのは値付けの作業。「一つひとつ手作業で値段を付けるのに1週間くらいかかりました。2階は在庫でいっぱいになるほどでしたね。一度に400万円ほどの商品を仕入れていたんですよ」と、当時の熱量が伝わってきます。
後に長岡市の問屋との取引も始めましたが、特にこだわったのは地域性。「日常着と晴れ着のバランス、農作業用の実用品から、ちょっとしたお出かけ用まで。津南の暮らしに合わせた品揃えを心がけていました」
全国画一の大型店にはない、地域の暮らしに寄り添った商品選びが、丸澤屋商店の強みだったのです。
「おしゃべりの場」が紡いだ地域の絆

丸澤屋商店の最大の魅力は、長年にわたって地域の方々と築いてきた信頼関係でした。
「私のおばあちゃんたちの世代がメインのお客さんでした。うちは特別若者向けというわけではなかったんです」お店に立つやりがいを尋ねると、「売上も大事だけど、何より会話が楽しかった」と瀧澤さんは話します。
冬の厳しい津南町で、丸澤屋商店は単なる買い物の場所以上の存在でした。買い物に来たというよりも、瀧澤さんに会いに来られた方も多かったのではないかと感じます。丸澤屋商店は地域のコミュニティの場としての役割も果たしていたことがうかがえます。
「雪に閉ざされる冬の間、特に高齢者は外出の機会が限られます。そんな時、『ちょっと何か買いに行こうか』と足を運んでくれるんです。洋服を見るついでに、健康の話、家族の話、世間話…。そんな日常のやりとりが、私も含めて皆さんの心の支えになっていたらと思います」
瀧澤さんの温かな人柄と、長年培われた信頼関係。それは商品以上の価値を持つ、丸澤屋商店最大の「商品」だったのかもしれません。「客と店の関係を超えた、人と人のつながりがありました」と瀧澤さんはいいます。
「丸澤屋商店」の建物を活かして、商店街に新しい風をふかせてほしい


1985年代、津南町にも時代の波が押し寄せました。「高原リゾート施設 『グリーンピア津南』ができ、スーパーマーケット 『リオン・ドール』(当時はライオンドー)」などの大型店が出店し始めると、徐々に人の流れが変わっていきました」と瀧澤さん。車社会の到来と共に、人々の生活スタイルも変化していったのです。
「バブル期までは年商数千万円近くありましたが、平成に入ってからは徐々に下降線をたどりました」と振り返る瀧澤さん。それでも地域の人々のために、お店を続けてきました。「急にやめるわけにはいかなかった。お客さんに申し訳ないと思って…」という言葉に、店主としての責任感が表れています。
しかし体力的な限界も感じ、令和7年4月末での閉店を決意。「でも、このまま店がなくなって、商店街に穴が開いてしまうのは寂しい」という思いから、建物を引き継いで新たな事業を始めてくれる方を募集しています。
「この建物を活かして、何か新しいことをやってくれる人がいればいいですね」と瀧澤さん。かつての賑わいを知る商店街の一角で、新たな可能性を模索しています。