継ぐまち:宮崎県西都市
継ぐひと:黒岩智文、澪
譲るひと:髙瀬宏
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:栗原香小梨 編集:中鶴果林(ココホレジャパン)
直接お客さんとふれ合う仕事に感動して
宮崎県の県都宮崎市の中心地から車で約40分の場所に位置する西都(さいと)市。恵まれた気候と豊かな土壌により農業が盛んで、かつては古代の都として栄え、『古事記』『日本書紀』に登場する伝承地が市内に数多く残る歴史と関係が深いまちでもある。
まちの中心に建つショッピングセンターPAOの中に18年続く食事処「夢想庵」がある。この地に偶然出会い、人々のあたたかさに魅了され、継業して人生の舵を大きく切った夫婦がいる。
「もともと電子機器系のメーカーで製造の仕事をしていたんですけど、定年後の姿がちょっと想像できなかったんです。年齢も40に近づいてきて、新しい仕事をはじめるには今かなと思っていたところに承継の話を聞いて」
そう語るのは、現店主の黒岩智文さんだ。
元々は宮崎県内に住んでいたそうだが、2年前に夫婦で住む家を建てる際、土地探しの中でたまたまこのまちに出会ったという。
奥様の澪(みお)さんが「夢想庵」でパートとして勤務していたのがきっかけで智文さんと澪さんは「夢想庵」の後継者募集を知った。
「僕は料理が好きで、家でも作ったりしていたので、ちょっとやってみたいという話を妻を通して先代の店主に打診したのがはじまりです」
先代に打診したのは2020年の年末のことだったが、すぐに先代店主と具体的な事業承継の話になったわけではないという。「週末とか休みの日だけでも店に入って雰囲気とか味わったうえで、本当に継ぎたいかを決めてくれ」それが先代からの返事だった。
それから、製造業の仕事の傍ら休日に皿洗いやちょっとした調理など店の手伝いに入った智文さん。当初は「会社員とは勝手が違く、自分がこの店に店主として立つなんて、まったく想像できなかった」というが、「夢想庵」を継ぐ決心をさせた出来事があった。
「調理の手伝いに入って作ったお惣菜が店頭に並んでいたときに、それを召し上がったお客さんが『美味しい』『ありがとう』って言ってくれて。自分が作ったものに対しての意見や評価を直接いただけて、お客さんと話すのってすごくいいなって感動しました。将来年を重ねても、そういった仕事がしたいと思ったんです」
そうは言っても、家族や家のローンも抱え、「なかなか会社員を辞める踏ん切りがつかなかった」という智文さんだが、澪さんの言葉で心が動いたという。
「妻に『もしこれで借金背負って、自己破産しても死ぬわけじゃないから、やってみたら』って言われて、そういう考えもあるかなと思ったんです。
人生の中で、1回ぐらいはそのぐらい踏ん切りつけて何かやってもいいのかなと。実際に店の手伝いをしてみて、自分でもやりたいと思い始めていたので、それで決めました」
以前は誰かの手元に届ける仕事ではあったが何千もの数の緻密な機器を日々黙々と製造する仕事をしていた智文さん。「買った人から、直接ありがとうと言われるような仕事ではなかった」と話す。
しかし、「夢想庵」で日々訪れる人々と交わされる何気ないあたたかい会話や心遣いに感動し、自分たち夫婦の幸せな未来をそこに想像したのだ。
それでも自分で商売をやるのは初めてのこと。経営面で不安があったそうだが、先代店主とともに商工会議所などに相談し、不安なことを一つずつ解決していった。
「優しくて、友人のようにあたたかい」お客さんたちがいる西都市が好きになった黒岩さんご夫妻は、西都市の人々のあたたかさもあり、「夢想庵」を継ぐ決心を固めた。ちょうど、2021年の春ごろのことだ。
継業のタイミングは「もうはまだなり、まだはもうなり」
「オープンして10年目ぐらいから、きちっと利益も出るようになって、その頃から事業承継も考えはじめていました。70歳までには引き継ぎたいなっちゅうことで。『もうはまだなり、まだはもうなり』という言葉の通り、まだいけると思ったときにさっと引く、これがいいかなと思って。何より、勢いがある時に継げれば相手も嬉しいだろうからね」
と朗らかな笑顔で、先代の店主、髙瀬宏(たかせ ひろし)さんは話す。継業する側のことを考え、利益がようやく出だしたころから引き際を考えるとは驚きだ。
髙瀬さんがこのショッピングセンターで商売をはじめたのは、1985年のオープン当初から。当時は魚屋だったそうだが、16年ほど前、ショッピングセンターの管理会社変更のタイミングで、スーパーや衣料品店などが撤退。新たに入るスーパーのテナントを決める際に業種変更をしたそうだ。
「私が魚屋をしてたもんで、新しく入る魚屋が入りづらいということで、二の足を踏んでらっしゃったんですよ。なので、私が業種変更しますってね。
その時、再オープンまであと1ヶ月しかなかったもんだから、何しようかなと思って。今思えばいい加減な考えだったと思うけど、うどん屋なら誰にでもできるんじゃないかと思ってね」
といたずらな笑みをうかべて髙瀬さんは話す。いさぎよい人だ。
それまで飲食店の経験はまったくなかったそうだが、ショッピングセンターの再オープンまでの間、香川県にあるうどん学校へ修行に行くことにした。しかし、当時ショッピングセンターで協同組合の理事長を務めていたため、再オープンに向けた業務が残っており、実際に香川に行けたのは2日ほどだったという。
「そんな状況でうどん屋をはじめたもんだから、最初の5年間で3000万円ぐらいの赤字を出しましてね。なんせ美味しくない。よくこういう店が成り立つよね、とみんなに言われまして。ものすごく辛かったですね」
悪いことは重なり、うどん屋をはじめた頃、髙瀬さんのご家族が借金の保証人となったまま亡くなり、代々受け継がれてきた土地などの財産とともに、借金も引き継ぐことになった。
多額の赤字と借金を背負い、心が折れそうなものだが、うどん屋を辞めようと思ったことはなかったのだろうか。
「当時、うちのカミさんと話しててね。『ここで辞めたら失敗よね。とことん行きましょう』って言われて。この言葉をずっと大事にして店をやってきました。カミさんに言われて、僕もやるしかないっちゅう感じでしたね。やるしかないんだから、もう諦めないでやろうやって」
支え合う家族の存在もあり、その後も試行錯誤を繰り返し、「夢想庵」の味を作り上げた高瀬さん。業種変更から5年が経つ頃、ようやく徐々に売上が伸びていった。
市街地からもリピーターのお客さんが来るようになり、7年目以降は順調に売り上げが伸び、今では多い時は1日に100組以上が来店する地元で人気の飲食店となった。
「すぐに営業ができる状態で引き継げたのはありがたかった」と智文さんは語る。それはまさに、継業の醍醐味だろう。
丁寧に準備を整える
4年前(2018年)、県の事業承継・引継ぎ支援センターへ相談しながら、本格的に承継へ向けて動き出した。自身で知人にも声を掛け、4組の承継希望者と面談したが、なかなか条件が折り合わず他の候補者を探していた。そこに、店内で承継希望者と面談していたため、髙瀬さんが継ぎ手を探していたことを知っていた澪さんが承継希望者として名乗りをあげ、5組目の黒岩さんご夫妻に譲ることを決めたという。
黒岩さんご夫妻に店を譲ることを決めた髙瀬さんだが、承継前に「それぞれご両親を呼んできてくれ」と智文さんに提案したという。
「本人たちに説明したあとに、もう一度説明せないけんことが起こるといけないと思ってね。今までの店の経緯や利益、顧客数、経費などもすべてご両親とも共有しようと思って。双方が納得したうえで事業承継に臨んでくれないだろうかとお願いしました」
どちらの親族にも、個人で商売している人がまったくいなかったという黒岩さんご夫妻。本人が承継を希望しても、親に反対され承継が叶わなかったケースも少なくない。「夢想庵」の真摯に商売に向き合う姿勢を、経営の数字と合わせてご両親に理解してもらうことは、承継をスムーズに進めるうえで大事なステップと言えるだろう。
「両親は『商売は大変』というイメージを持っていたと思います。私が正社員で大きな会社に勤めていたので、なんでわざわざ辞めて大変な商売を継ぐのかって、そういう気持ちもあったでしょう。それに家を建てたばかりだったので、妻の両親は特に『大丈夫なのか』という心配や不安な気持ちが大きかったんじゃないかな」
と智文さん。
ご両親を含めた説明会には、商工会議所と事業承継・引継ぎ支援センターの方も同席し、事前に創業の経緯や、経営の数字を盛り込んだ詳しい資料を作成してくれたという。「両親に反対されても継業するつもり」で説明会に臨んだ黒岩さんご夫妻にとって、承継の専門家たちのサポートはかなり心強かったに違いない。
経営するうえで発生する経費や利益、事業承継ローンを活用して借り入れた譲渡金の返済計画など『承継にまつわるお金のこと』を専門家から説明されたことは、ご両親にとって安心に繋がっただろう。説明会後、ご両親の快諾を得た黒岩さんご夫妻は、「夢想庵」継業に向けて歩みを進めた。
「承継前の1ヶ月はアルバイトという形で毎日お店に入って、自分は一番下っ端のつもりで働いてました。従業員の皆さんと同じことをできるようになってから、この店の店主になるんだって考えているのをわかってもらいたかったんです」
と話す智文さん。その甲斐あってか、承継後は「店の従業員にもすんなり受け入れてもらえた」そうだ。一方で先代の髙瀬さんも、新しい店主が地域や既存のお客さんに問題なく受け入れられるよう、準備を進めた。
「承継の1〜2ヶ月前に、私から常連の顧客や取引先にDMを出したんですよ。若い夫婦が今後引き継ぎますってね」
こうして、髙瀬さんや地域の各種支援もあり、ご両親や従業員、お客さん、地域の人たちへの配慮も忘れず、丁寧に事前準備を整えた黒岩さんご夫妻は、2021年10月1日に「夢想庵」を正式に承継した。
少しずつ、自分たちらしい店に
10月に承継した後、3ヶ月間看板メニューであるうどんを含む50種類ほどのメニューをたたき込まれた智文さんだが、メニューを教えてもらう際に苦労したことがあったという。
「調味料などを入れるときに『だいたいそれぐらい』という感覚や目分量のレシピが多いので大変でした。性格的には、きっちりしたかったので、自分の中で折り合いをつけるのが難しかったですね(笑)髙瀬さんやスタッフが『これぐらい』という分量を、自分の中で”何秒間垂らした”というように、できるだけ数値化するように取り組んでいました」
「感覚や目分量のものを数値化する」ことは、黒岩さん夫妻がいずれ事業を譲ることになったときに、大事な取り組みだろう。
承継当初は毎日のように店に行っていた髙瀬さんだが、今は月2回ほど智文さんが店に出られないときに手伝っているという。
「閉店後に、季節が変わり目のメニュー変更とか、お客さんを取り込む方法を一緒に考えたりしています。でも、あんまり言うと、年寄りの冷水って言われますからね」
と控えめに言う髙瀬さん。
商売はまったく初めてのことだった智文さんにとって、経営や味のことなど店について色々相談できる髙瀬さんの存在はかなり心強いだろう。それは、髙瀬さんが店の未来を見据え、「自分が動けるうちに」事業承継を考えたからこそできることなのだ。
「次々に新しいものが出て、いらないものは淘汰されていく、その時代の流れをしっかり汲みながら飲食店の経営していかないと、生き残りはできないと思うよ。
今は郊外に買い物に出かける人も多くて、コロナもいつ終息するかわからない。そういう時代の中で、1回は厳しい経営状況になるときも来る。それがいつ来るかわからないから、情報を集めながら経営していかないといかんよね」
終始おだやかな表情で取材に応じてくれた髙瀬さんだが、将来を見据える経営者の顔が垣間見えた。
そんな髙瀬さんの思いに応えるように、智文さんは未来を見据え、いかに自分たちらしく店を展開していけるか考えはじめていた。
「急に店主が変わると、味はそのままなのに、イメージで『変わった』って言う人も出てくる。それなら、いっそ経営者が代わったって分からないように、ちょっとずつ変えていき、自分たちらしい店をつくっていこうって妻と話しています。
注文が手書きだったり、アナログな仕組みも多いので、従業員が今より楽に同じ仕事ができないか模索しているところです」
先代が大事にしてきた店づくりの考えや味は大切に、急にガラリと変えるのではなく、時代の流れに合わせて、少しずつ変わっていくべきところは変えていく。継業した側の価値観や考えを少しずつ出していくというのは、大切な心得なのではないだろうか。
「妻が飲食店でずっと働いていたというのもあって、コロナが落ち着いたらもう一店舗、ちょっとしたお酒と〆のうどんを食べれるようなお店を持ちたいです。でも、まずは髙瀬さんたちがすごい売上を上げていた時期があるので、それを越えたいですね。
うちはお客さん同士が仲がいいので、そういう人たちの輪が広がって、お年寄りが学生さんたちに声をかけたりするような、そういう雰囲気の店作りをしていきたい。こういう西都っていう土地だからこそできることだと思います」
と力強く智文さんは話す。
人口減少が進み、地方のショッピングセンターの役割が「買い物する場」から「コミュニティーの場」へと変わりつつある。
まちの人々のあたたかさに魅了された若い夫婦に引き継がれた夢想庵が、より一層地域に根付いた店となり、まちの憩いの場となっていくのが楽しみだ。
継いだもの:食事処「夢想庵」
住所:宮崎県西都市小野崎1丁目ショッピングセンターPAO1階
TEL:0983-42-6030