継ぐまち:静岡県下田市
継ぐひと:由利健二
譲るひと:村山英夫
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:前田美帆 写真:廣川かりん 編集:浅井克俊、中鶴果林(ココホレジャパン)
日本全国にファンを持つ「外浦の塩」
定番は、炊きたてごはんや豆腐、刺身。食材をめがけパラパラと振った塩は、素材の味を引き立てながら甘くまろやかな味わいになる。静岡県下田市で20年以上作り続ける村山英夫さんの「外浦の塩」は、そういう味だ。塩気を感じたあと、最後には甘みと旨味が残る。その複雑な味わいに魅了され、作り手に一目会いたいとわざわざ下田まで訪れるファンも多い。
長い間、たったひとりで作り続けてきた天然塩。「この味がなくなったら困る」という多くの人の声に応えるように、2020年10月、村山さんのもとに後継者が現れた。導かれるような出会いから、継ぎ手とともに塩を作り始めるまでの物語を追った。
還暦を超えてから挑戦、「外浦の塩」の始まり
伊豆半島の先端、東側に位置する下田市。幕末、ペリーが来航した日本開国の地だ。まちの顔とも言える太平洋へ開けた青い海は、国内でも有数の透明度を誇る。山と川の豊かな恵みを受け止め、暖流の黒潮と深海を併せ持つ下田の海は、多様な生態系を築いている。
そんな下田の海そのままの味がする「外浦の塩」。今年で84歳になる村山さんが塩を作り始めたのは、なんと還暦を過ぎてからという。長年勤めたタクシー会社を定年退職したあと、同世代のお隣さんとともに塩づくりをスタート。同じ伊豆半島内の沼津市戸田(へだ)地域で、塩を手づくりしていると知ったことがきっかけだった。
「戸田は、半島の中でも早くから塩を作り始めたらしいの。で、作ってるのが婦人会だと聞いて隣のお父さんと見学に行ったわけ。そこでできたのを買って食べたら、その塩がおいしいっていうわけさ。だから『おい、俺らもどうだよ。塩やってみようか』ってことになって。それから『(塩づくりって)どんなことをやってんだ』『なんだか鍋で炊いてるよ』って、そんなとこから始まっていったんだけどね」
当時は塩づくりのノウハウなど、まるでなかった。当然、必要な道具もない。どんな道具が適しているのかすらわからない。戸田で見た光景を頼りに、試行錯誤の塩づくりが始まった。
今や、村山さんの塩には日本全国に多くのファンがいる。その多層的な味わいはもちろんだが、さらに驚くべきは、塩づくりの方法も道具も作業場も、すべて手づくりであることだ。塩のつくり方も誰にも教わらず、海水を煮るための大きな鍋や作業小屋までも自作している。ここにあるものすべてが、塩づくりを始めた初期から工夫を重ねてきたオリジナルのかたちなのだ。
「いちばん初めは隣の親父がさ、切ったドラム缶に火を焚いて、芋煮をするような大きいアルミの鍋で海水を煮たんだよ。でもいくら燃しても塩になんない。『どういうわけだろう』って言うんだけど、俺も『わかんねえな』って言ってさ(笑)。『鍋の質が悪いのかな』って言われて適当に平たい鉄板を買ってきたけど、曲がらねえんだ、固くて。それで厚さを変えたり、材質を変えたりして、最終的に今みたいな薄い鉄板で作るようになったの」
しかし、鍋は完成しても、海水をただ煮るだけでは旨い塩はできない。海水を汲む場所、火加減、ごみを取り除く方法など、考えることはたくさんあった。やり方を考え、変更し、さらに良い塩を作る。その繰り返しを経て、今の製法を確立するまでにかかったのは約15年。良い仕事は、すぐにはできない。村山さんの言葉には重みがある。
「俺もいろいろ仕事をしてみたけどね、大工さんなんか弟子に入って5年で年季を入れろって言われるけど、5年じゃ一人前になれない。じっくり15年くらいはやらないと、本当の意味で自分の身につかないよ。どの仕事でもそう。やっぱり10年以上経験しなきゃ、まともな品物にならないね」
そう語る村山さんも、決して同じことだけを続けているわけではない。繰り返しやり込んだ作業でも、気になることがあれば温度を計り、メモを取りながら少しずつ調整。そうして、もっと良い塩を作るための方法に挑み続ける。だからこそ、村山さんの作る塩はその時々で表情が変化するのだろう。おいしさを保つ品質は変わらないが、塩の色合い、結晶の大きさなど、手づくりならではの個性と深みが生まれる。まさに、村山さんにしか作れない塩なのだ。
今では地元の旅館や飲食店等からの注文に加えて、直接村山さんへ連絡する個人のお客さんも多い。すべて手作業なだけに、今いるお客さんのぶんを作るので精一杯だ。一緒に始めた隣のお父さんが亡くなった10年ほど前からは、暑さの厳しい夏場や悪天候を除いて1日も休まずひとりで塩を作り続けている。重労働にもかかわらず、20年以上もそれを続けてきたのは、他でもないお客さんのためだ。
「『お前の塩がないと困るよ』と言ってくれる人が結構いるの。そう言われると、その人に間に合わせてやりたいなと思うだけさ。店で切らすと困るから、発注する人は『なるべくたくさん欲しい』と言うでしょ? その人が責められるとかわいそうだから、なんとか間に合わせてやりたいと思うんだよ。だから『もう売り場は増やさないよ』って言ってるの。これ以上忙しくなると、もう間に合わないから」
そう話す村山さんの表情は活き活きしている。求めてくれる人のために、中途半端な品物は作れない。お客さんへの愛情を感じる言葉の節々に、その魅力的な人柄が垣間見える。奥深い塩の味わいはもちろん、人情の厚い村山さんの人柄に惹かれる人も多いのだろう。
村山さんの生き方に共鳴して
これから「外浦の塩」を継業する由利健二さんも、村山さんとその塩づくりに惚れ込んだひとりだ。
由利さんは、埼玉県出身。海があるまちを目指して、2年前に伊豆へやってきた。本来は別の地域へ労働体験に行くはずが、企業の担当者と連絡が取れなくなり、結果的にたまたま住まいを見つけた下田市に移住を決めた。
偶然たどり着いたとも言える下田の地。由利さんが「外浦の塩」を知ったのは、移住してから1年が過ぎたころ。外浦地区に住む友人の家にあったその塩に興味を持ち、「塩ができるところを見たい」と村山さんのもとを訪れた。
その日は、20日間にわたる塩づくりのクライマックス。由利さんにとっては、初めて見る塩づくりの光景だった。一通り見学を終えたあと、その日のうちに「塩づくりを教えてほしい」と村山さんにお願いしていたという。由利さんが惹かれたのは、村山さんの生き方そのものだ。
「僕が移住したのは、『衣食住を自分でできるようになりたい』と思ったから。今まで便利なものに頼ってやってきちゃったから、自分が何もできないことに気づいたんです。でも村山さんの塩づくりは、工夫の塊。全部自分で考えて作ってる。それがすごい。もともと海の近くに住みたいと思っていたけど、僕には塩を作るなんて発想はなかった。だから興味を持てたし、それが自分の仕事になれば嬉しいなと。それで『全部しっかり習いたいので、明日から押しかけていいですか』とお願いしたんです」
その翌日から、由利さんは村山さんのもとへ通い続けた。付きっきりで作業に立ち会い、塩について教えてもらう。その間は、お互いを知るための期間でもあったと由利さんは振り返る。
「村山さんのところに通い始めてから2週間くらいは、塩を習いながら質問攻めというかね。僕は面接期間だったと思ってますよ。今まで何をやってたとか、それこそ履歴書に書くような話をしてました。もともと村山さんに『継がせてください』とは一切言ってなくて、まずは本当に塩を習うところからスタートしたんです」
由利さんは村山さんの後継者がいないことも知っていたが、あえて触れなかった。じっくり塩づくりを学びながら、少しずつお互いの距離を縮めていく。由利さんが正式に村山さんの塩を継ぐことになったのは、それから少し後のことだった。
「1〜2か月して、村山さんが『同じ店舗に一緒に塩を並べて売ろうや』とか、同じパッケージでのれん分けみたいにしてやろうっていう話をしてくれたんですよ。それを聞いて、僕から『お願いします、継がせてください』ってちゃんと言葉にしたんです。僕は最初から全部もらいにきたわけじゃない。信頼してもらえたんだと思ったときにお願いしました」
村山さんが丹精込めて続けてきた塩づくりを、そう簡単に「継がせてください」とは言えない。村山さんのやり方や考え方、生き方をリスペクトするからこその、由利さんの思いだった。
それまで自分の代で終わりだと考えていた村山さんも、「継ぎたい」という由利さんの言葉を聞いて嬉しそうだ。
「俺がよほど歳取って見えるんだな。配達に行くと、店の人が『誰か後継者いないかね』って必ず言うの。まあ俺も歳だし、くたびれてきたからさ。ちょうどこの人がやりたいって言うから、いい塩梅だと思って。またこの人(由利さん)も上手いこと言うんだよ。『この味を残したい、下田の味だから』って。この人が十分ひとりでできるようになったら、俺ももう引退していいと思ってるんだ」
今、由利さんはかつての村山さんと同じように、使う道具や作業小屋にいたるまで、すべて一から自分で作っている。というのも、現在の作業場は、土地の契約上、村山さんの代限りで使えなくなってしまうからだ。由利さんは、下田市内に新たに土地を買い、そこで塩づくりをしていくと決めた。ひとつひとつ村山さんに教えてもらいながら、しかしそのすべてを自分の力で作り切ると決めて継業の準備を進めている。
そんな由利さんには、地元の人からの期待も大きい。下田を代表する塩の継ぎ手とあって、まちのなかで注目を集めている。ときには地元の人からの反応に驚くこともあったという。
「僕は『外浦の塩』がそんなに有名だと知らなかったので、継ぐ話が知らないところでどんどん大きくなっていって驚きました。全然知らない人に『あの塩はまちの財産です!』って急に言われて、『えー!』ってなったりとか(笑)。今もみんなすごく協力してくれるし、応援してくれてるのを感じますね」
明確なマニュアルもない村山さんの塩づくり。途絶えてしまえば二度と再現できなかったかもしれない。由利さんによって下田の味が守られることを知り、安堵した人も多かったはずだ。
「この人なら絶対に間違いはないと思ってる」
10年以上、村山さんがたったひとりで続けてきた塩づくりは、今再びふたりとなり、由利さんへバトンがつながれつつある。取材の最後、「由利さんに受け継いでもらいたいことはなんですか?」と聞くと、村山さんからはこんな答えが返ってきた。
「いや、別にそれはないよ。この人は器用だし、きちんとしてる人だから。絶対に間違いはないと思ってる、俺は」
由利さんへの確かな信頼。「この人になら任せられる」という確信の込もった言葉に、思わず胸が熱くなる。そして、村山さんは続けてこう語った。
「ただ、こういう売り買いする仕事は、売れが良かったりすると調子に乗って、品物として高く売ろうとか、簡単に作ってすぐ売ろうとか、そういうことを考えちゃ長続きしないの。絶対にだめ。商売というものは信念を持ってやらなきゃ。俺の品物には自信があるって。人のものをけなさなくともさ、それは食べてみればわかることだから」
ひたすら自分の塩に向き合い、極め続けてきた村山さんが、ずっと大事にしてきた信念。塩の味はもちろん、何よりもこの思いを受け継ぐことが「外浦の塩」を継ぐということなのかもしれない。そしてその思いを受け取るように、由利さんも口を開く。
「村山さんが言ったように、僕も欲はないんですよ。村山さんが作った、白くて甘い、この塩の味を守っていければよくて。ただ、もちろん僕ももっと良い塩にするために、村山さんの“工夫”を受け継ぎながら、さらにその先の“工夫”を考え続けたいです。そのあとは、できたら僕もまた次の人に伝えて、残せたらいい。そう思っています」
今作っている新たな作業場が完成すれば、由利さんの塩づくりが正式に始まる。ふたりの作った塩がそれぞれ店頭に並んで置かれる日は、そう遠くない。取材の途中、「生産者の名前が変わったらお客さんがガッカリするかもしれない」と由利さんが不安をこぼしたときも、村山さんは迷いなく「大丈夫だよ」と言った。
ふたりの発する言葉や目線、佇まいから感じる、お互いへの信頼。このふたりが出会ったのは、なんだか運命のように思えてならない。しかしその運命は、奇跡や偶然ではなく、村山さんの信念が宿るものづくり、そして由利さんの飾らない真っ直ぐな人柄が引き合わせたものだろう。
このふたりの出会いは、下田のまちにとっても希望になったはずだ。地域をつくるのは人。下田らしさを支える魅力的な人物が、またひとり誕生した。
継いだもの:外浦の塩
住所:静岡県下田市柿崎679-6
TEL:0558-22-4771