継ぐまち:新潟県新潟市
継ぐひと:川崎明広
譲るひと:小林幹生
伴走するひと:迫一成(hickory03travelers)
〈この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。今回は番外編。デザインがつないだ親族内承継の物語を紹介します。
取材・文:高橋マキ 写真:日下部優哉 編集:浅井克俊(ココホレジャパン)
新潟に甘い記憶を残す、不思議な砂糖菓子
一見、金平糖のようにも見える「ゆかり」という名のかわいらしいお菓子。漢字だと「柚香里」と表すらしい。金平糖によく似た砂糖菓子だけれど、金平糖ではない。いちばんの違いはその食べ方で、お湯や水を注いで食す「飲料菓子」であること。新潟、特に下越地方で親しまれてきた郷土菓子だ。
このゆかりを製造するのは「明治屋 ゆか里店」。現在、新潟で唯一、このゆかりを手作り販売するお店だ。
この明治屋のゆかりもかつては後継者不在により風前の灯にあった。その失われつつあった郷土菓子をいまにつないだのは、ある伴走者との出会いだった。その出会いにより「ゆかり」は「浮き星」として生まれ変わり、新潟の古くて新しいお土産として、再び若いひとたちにその甘い記憶をつたえることになった。
港町・新潟の豊かな和菓子文化
かわいらしい姉様人形の絵に寄り添うようにおおらかに書かれた「ゆか里」の文字。120年続く「明治屋 ゆか里店」が看板を掲げるのは、新潟市中央区湊町。本町、古町、湊町。令和の現代には、すでに目に見える建造物や賑わいが失われていたとしても、これらの名を持つまちには必ず華やかな歴史と味わい深い物語がある。
江戸時代の新潟は、大坂と北海道を結んだ経済動脈「北前船」の寄港地として旅人や商人が行き交い、独特の文化を発達させた。さらに明治には、横浜、函館、長崎、神戸と同様に外国貿易港として開港した歴史もある港町だ。もっと時代をさかのぼれば、信濃川と阿賀野川でつながる信濃や会津といった内陸地との流通があり、川の港としての顔も持つ。米と酒でよく知られる新潟だが、流通が育んだ多様性の中から生まれた豊かな文化のひとつに、和菓子がある。
なしの実、笹だんご、舞姿、養生糖に、ゆかり。「明治屋」の3代目、81歳の小林幹生さんの口からは、初めて耳にする和菓子の名前がポンポン飛び出す。
「明治屋」の創業は明治33年。小林さんによれば「初代が新潟に来た時から、ゆかりはあったらしい」とのことだが、ゆかりのルーツは会津にある。現在では、福島と仙台で1軒ずつ製造販売を行うだけとなった「九重(ここのえ)」が、阿賀野川でつながる新潟にも伝えられたのが始まりらしい。九重は少しデコボコした球体だが、新潟のゆかりには金平糖と同じく、とげ(ツノ)をつける。
「僕が家業に入ったのは高卒で、18歳のとき。当時は全てが手作業だったからね、大変だったよ。でも、砂糖蜜を手がけするから、明治屋のトゲは溶けるのが早い、それがいいって。ヨソより高く売れたの」
戦後、砂糖がまだまだ貴重品だった時代の話。それから70年近く経った令和の現在、ガスや電気とその動力は変わっても、大釜に長時間職人が付きっきりで蜜をかけ続け、根気よく美しいトゲを育てるという手しごとであることに変わりない。新潟市内に4軒あった製造元は、「明治屋」1軒のみとなってしまった。
「大手の米菓屋さん(製菓会社)が、みんな見学に来る。なんで見に来るのかって、この「とげ」が欲しいんだっていうんだけど、こんな非効率なことやってるのかぁぁ!って、呆れて帰っちゃうんだ」
「もう何度もお話をうかがっている僕でも、毎回、知らない話が飛び出すからすごいなあって思うんです」
と、小林さんの隣で相づちを打つのは、わたしたちをここへ案内してくださった、デザイナーの迫一成さん。明治屋から車で10分ほどの上古町商店街で「hickory03travelers」という雑貨店も営んでいる。博識な小林さんの楽しいトークが時々脱線しそうになると、うまく軌道を戻してくれる。小林さんと迫さんは倍ほどの年の差があるが、二人のようすを見ていると、お互いを尊敬し合う関係、仕事上のよき相棒なのだということがすぐにわかる。
ふたりの関係は、ゆかりを知った迫さんが自店にゆかりを仕入れたことからはじまった。
「地元の古いお菓子だと知って、僕たちの店にもゆかりを卸してただいたのがご縁の始まりです。地元には懐かしんでくださる方も多くて売れ行きは悪くなかったです」
「うちのお客さんは年寄りが多くてさ、みんな「子どもの頃におばあちゃんちの茶箪笥から出てきたね、懐かしい」って買ってく。もうその人も、今はおばあちゃんになってんだけどね」と、小林さん。
「お年寄りだけじゃないです。新潟、特にこの下越地域の人は、不思議なくらい、なぜかみんなその記憶を持ってるんですよ。お茶を飲めない子どもたちに、甘いのを飲ませたってことでしょうね」福岡に生まれ育った迫さんには、自身にはないその「新潟人だけが共有する甘い記憶」が魅力的に感じられた。
「デザインを変えたらもっと若い人にも買ってもらえるんじゃないかと提案してみたんですよ。だけど、その時はお断りされたんです」
けれど、それで引き下がらなかった迫さん。「後日、ダメ元で、じゃあ、無地の袋で出すのはどう?と尋ねたら、あっさり、それはいいよ、とお許しが出て(笑)」
「うちは、もともと生菓子屋さんの黒子をやってきたからね。卸し先ではうちの名前は出なくて、たとえば香月堂のゆかり、大阪屋のゆかり、として販売される。だから、そういうのは全然気にならないんだよ。それより、迫さんたちがやった “混ぜる” ってのは、それまで考えたことがなかったから、驚いたよねえ」
このOEM発注が、120年つづく明治屋に起こるイノベーションのはじまりだった。
生まれ変わったゆかり
「僕たちにとっては、春だから、くらいの理由だったんです。あまり深く味のこととか考えないで、ピンクの紫蘇味、グリーンの抹茶味と、ベースの白を混ぜて袋に詰めてみたら、キレイだなぁって。すると、若いお客さんが「かわいい!」といって雑貨感覚で買ってくれるんですよ」
その名も「ミックスゆかり」。お湯に溶かさなくても、アイスやヨーグルトにトッピングしてもなかなか絵になる。これが新しい新潟名物として少しずつ話題となった。そして、パッケージやサイズを一新するだけでなく、ミックスゆかり改め「浮き星」というかわいいネーミングも与え、満を持して出展したのは、2015年2月の「ててて見本市」。出展ブースに掲げたコピーは「お茶に浮く星。新潟のかくれスターンダード」。
「カップにお湯を注ぐと、数秒で砂糖が溶けて、中のあられがぷかぷかと浮いてくる。8時間かけて職人さんが作ったものが、ものの30秒で消えてしまうんですよ。なんてセンチメンタルなんだ!と感じた、最初の感動を「浮き星」というブランドに込めました」
「浮き星」の反響は迫さんの予想を上回り、その年末までの10か月で売れた数、なんと3万個。こういうケースでは、急にたくさんの注文が入っても製造が追いつかないというミスマッチが起こることも少なくない。
「でも、小林さんの昔話を聞いていると、かつては大手の米菓会社としごともしていて、毎日12時間働いて、2ヶ月で6トン作ったこともある、なんていう話が出てくる。まだまだお元気でいらっしゃるし、これまで本当にたくさんの経験をされてきているので、たくさん注文が入っても、きっと受けて立ってくださるんだという確信がありました。そのうち、昔あったけど、今はもうやってなかったり、お蔵入りになったフレーバーがあることも教えてくださって、そのレパートリーの広さにも驚かされることになります」
今では、味と色も8種類に増え、年に10万個が売れるヒット商品だ。
コンサルではなく、伴走する商店街のひと
迫さんは福岡生まれ、大学で新潟へやってきた。まちとかかわるようになったきっかけは、大学卒業後、2001年に仲間と立ち上げたチャレンジショップ。 2003年には古町3番町(現在の上古町)のレトロな商店街の空き物件をリノベして「hickory03travelers」という拠点をもった。
「はじめは、店舗、事業というより、若者の表現の場として始まったんですが、今や商店街の理事長です(笑)」
迫さんも理事としてかかわり続けている上古町では、貸したいのに借りられてなかった商店街の店舗の割合が、35%から3%にまで減ったという。
「生産者の方ともコンサルではなく、商店街のひととして話をします。伴走して、最終的に売ってくれるひと、となるとやっぱり話が早い。行政から助成金だけいただいて、そのお金でパッケージ作ってハイ終わり、というのはどうも性に合わなくて」と笑う。
「うちで買い取る、仕入れるとなれば、先方も喜んでくださるし、こちらで値つけも自由にできる」
ただパッケージをデザインするだけのデザイナー、こうすれば売れると机上の空論を語るコンサルはたくさんいる。しかし生産者にとってはデザインはゴールではない、売り場に商品が並んでからが本当のスタートだ、にもかかわらず、実際に売り場に立ち、お客さんと直に接するデザイナーやコンサルは少ない。生産者とお客さんをつなぐのがデザインの役割であるのならば、ゆかりにおいて、迫さんとhickory03travelersが果たした役割は、正にローカルで必要とされるデザインだ。
そして婿が継ぐことに
「もうやめようかな、なんて思ってたもんね」。と小林さんは言う。
かつて、明治屋を継ぎたいというひとがいなかったかというとそういうわけではなかった。しかし、ゆかりの需要が減る中、後継者を雇い給与を支払う余裕はなかった。明治屋のような職人仕事は、事業を譲渡すれば承継できるわけではない。職人の技をつたえることが必須だ。そのためには後継者と二人三脚で技術を承継する必要がある。優れた技を持ちながらも小規模事業者の事業承継が難しい理由はここにある。
そのジリ貧な状況を変えたのが、迫さんとの出会いと浮き星だった。
かつては、8時間、10時間とぶっ通しで釜の前に立ったこともあるというが、時代が変わり、レトロな砂糖菓子「ゆかり」は次第にお土産物屋さんやスーパーの棚から消えていくようになる。他の和菓子作りも請け負うことなどで経営を支えてきたが、それでも70代も半ばを迎えた小林さんの頭に「もうやめようかな」という考えも浮かぶようになったタイミングで、「浮き星」というヒット商品が誕生したのだ。
「商売って、運とかツキとかいうのがあってね。僕は、ずっと運に恵まれてるんだよ」
そう、小林さんは運がいい。5年ほど前、迫さんとの出会いによって再びしごとが忙しくなったことで、諦めかけていた後継者ができた。娘婿の川崎明広さんが、職人しごとを手伝ってくれるようになったのだ。
「だけど、娘は今も渋々ですよ。商売を継ぎたくなくてサラリーマンに嫁いだはずなのに!ってね(笑)」
以前は味噌蔵で工場長を務めていたという川崎さんは、根っからの職人肌。取材中もずっとひとりで寡黙に大釜に向き合っていた。5時になって、ようやく釜の火が止待ってから、話をうかがった。
「継ぐ継がないという以前に、忙しそうだし、お義父さんも歳だし、少しずつしごとの段取りを教わって……と。そうこうするうちに、こうなっちゃった感じ。1日じゅう立ちっぱなしなのは大変だけど、前職と同じ食品製造の仕事なので、慣れている。ただ、一生懸命やるだけですね」
「手順は教わるけれど、手取り足取り教えてもらうものじゃないから、やっぱりしごとしながら自分でやり方を見つけていくしかない。5年経って、やっと思い通りにできるようになった気がします。商品の企画など、製造以外のことは迫さんが持ってきてくださるし、助かっています」
川崎さんオススメのゆかりの食べ方は、「炭酸水を注ぐ」。
「私も新潟出身なので、ゆかりには、うっすらと子どもの頃の懐かしい思い出があります。自宅でも時々、お湯に溶かしたり、ほろ酔いでウイスキーに散らしたりしますしね」
「今でもファンがいてくださるということは、それだけの魅力がある商品なんだと思います。もっともっといろんな人に食べてもらって、目にしてもらって、新潟のお菓子として未来に残していきたいです」
売り上げがあればしごとが生まれ、毎日のしごとがあれば、後継者が育つ。タマゴが先か、ニワトリが先か。明治屋では、結果的に娘婿が後継者として手をあげることになった。しかし、明治屋には、120年続く歴史、大手が「非効率」と呆れるほどのこだわりと技、それに裏付けられた質の高い商品があった。「デザイン」が果たした役割はたしかに大きいが「デザイン」そのものがこの物語の主役ではけしてない。小さな仕事の本質的な価値に目を向け寄り添ってくれるひと、地域の仕事の承継にはそんなお節介なひとがもっと必要だ。
継いだもの:ゆかりの製造販売
明治屋ゆか里店
住所:新潟県新潟市湊町通り一の町2599
TEL:025-222-6613