継ぐまち:兵庫県豊岡市
継ぐひと:石橋秀彦、伊木翔
〈 この連載は… 〉
後継者不足は、現代の日本が抱える喫緊の課題。「事業を継ぐのは親族」という慣習や思い込みを今一度とらえ直してみると、新しい未来が見つかるかもしれません。ここでは、地域の仕事を継ぐ「継業」から始まる豊かなまちと人の物語を紹介します。
取材・文:高橋マキ 写真:Akitsu Okd 編集:浅井克俊(ココホレジャパン)
90年の思い出と歴史を受け継いで
兵庫県の北部に位置する豊岡市は、2005(平成17)年に1市5町が合併して生まれた、県下でいちばん面積の大きなまち。東京23区(626.7㎢)がすっぽり収まる広さ(697.55㎢)に、現在の人口は約8万人。1925(大正14)年の北但馬地震で地域一帯に大きな被害を受けたため、その後の同時代に建てられた建築物が市街中心部に今なおところどころに残り、昭和レトロな独特な趣を漂わせている。そのひとつが、1927(昭和2)年に創業した「豊岡劇場」だ。
「映画館になる前は、ここでずっと歌劇をやっててね。外にスピーカーが付いてたから、うちまで聞こえてたものよ」と、戦後間もない古い話を聞かせてくださるご近所のおばあちゃん。夕方になるとお母さんが迎えに来てくれたという幼い頃のちょっとした思い出のをもつ地元の人たち。二人にとって思い出の場所だから結婚式の前撮りしたい、というカップル。10年ぶり、20年ぶりに来たよ!と声をかけてくれるお客さんーー。
一旦は閉館を余儀なくされつつも、2014(平成26)年に再生された「豊岡劇場」。そのリニューアルプロジェクト立ち上げから尽力し、現在に至るまで劇場責任者を務める伊木翔さんの元には、こんな風にたくさんの「小さな声」が届く。
「僕たちが関わってきたこの5~6年より前に、うず高く積み上げられた90年もの歴史がある。それをこのまちの人たちは知っていて、豊劇ってこんな場所だったね、こんな思い出があるね、というそれぞれの思いと共に、ここに足を運んでいただいているのだと、特に最近しみじみ感じるようになりました」
地方でゼロから映画館を新規開業するのは到底難しい。そんな現代の日本において、「豊劇には、歴史でしか紡げないストーリーがあるのが最大の魅力」と伊木さんはいう。
テレビという娯楽がまだなかった戦前の昭和、そして第二次世界大戦後の1950年代には日本映画の全盛期があり、たくさんの映画館が建設された。豊岡市内にも4つの映画館があったが、その後の高度経済成長にともなうまちの変化など、さまざまな時代の影響を受けて、最終的にここだけが生き残った。この豊岡劇場は、芝居小屋として開業したのち、戦時中は軍の倉庫、戦後は歌謡ショーやラインダンスの上演の場と形を変えて、映画館となったらしい。そのたびに増改築をくり返したと思われる看板建築が、その長い歴史の中での紆余曲折を物語っているようでもある。
しかし、そんな愛おしい豊劇を、4代にわたり家族で経営してきた前オーナーの山崎浩作さんが52歳という若さで「閉館する」と決断せざるをえなかったのは、映画フィルムのデジタル化という大きな時代の壁を乗り越えられなかったからだった。デジタル映写機を導入するには、数千万円規模の投資が必要となる。「このタイミングで、地方の多くの映画館がクローズしたと聞いています」と、伊木さん。
こうして、地域のファンに惜しまれつつも、兵庫県北部唯一の映画館「豊岡劇場」は閉館してしまった。2012(平成24)年3月31日のことだ。
ぼくは、映画館のないまちに住みたくない
ところが、その2年半後の2014年12月に、豊劇はまるで奇跡のように息を吹き返すことになる。奇跡を起こしたのは、隣町に生まれ育った石橋秀彦さんだ。
石橋さんは、中学時代からこの豊岡劇場で映画を見るようになり、「洋画の映画監督になりたくて」半年かけて両親を口説き落とし、なんと15歳で単身海外留学をしたという経歴を持つ。とはいえ、 ティーンエイジャーのこと。かの地で高校、大学と進学するにつれ、その夢の形は次第に変わり、興味は現代美術へと向ったのだそう。けれど、30歳を機に帰国したあと再び、東京の映画美学校で学んでいる。本人は帰国してからのこの10年のことを「無駄な30代」と自嘲するが、この時「映画館といい友だちになった」時間は、今思えば決して無駄ではなかった。
「2010(平成22)年頃には地元に戻ってきて、父の仕事である不動産業を継ぎました。それからは一度しか足を運ぶことのなかった僕が豊劇閉館の報を受けたのは、もう3月に入るかという、ほんとうに直前のタイミングでした。なんとか開け続けてくれと言ったんだけど、オーナーの山崎さんの決意はすでに揺るぎないものでしたね」
それならばと、閉館までの期間の写真と映像のアーカイブを取らせて欲しいと願い出た石橋さんが、山崎さんと日々顔を合わせ、ことばを重ねる中で、閉館は免れないけれど「市民有志で再開の可能性もあるかな」という明るい話まで出るようになったという。ところがそんな盛り上がりのさなか、5月のある日、山崎さんが不慮の事故で亡くなってしまうという不幸に見舞われた。さあこれからだと思っていた縁が、希望が、未来が、プツンと途切れてしまったのだ。
「出会ってたったの2ヶ月でした。人の死がもたらすショックは大きいですよ、やっぱり。悔しいけれど、そうか、これはもう、滅びていく運命ということなのか、それならば諦めるしかないのか……と、この時は自分に言い聞かせました。それでも僕の中にはくすぶるものがあったんだと思います」
一旦は石橋さんが胸の奥底にしまいこんだはずの、そんなくすぶりを知ってか知らずか、その秋に知人を通じて「1日だけ豊劇で映画を上映してほしい」という依頼が舞い込んだ。「これを受けて立つのは僕しかいないと腹をくくり、山崎さんの遺族に交渉させていただいて、1日だけの上映会を決行しました」
1日だけの上映会は、満席御礼。その日の景色に、残されたアンケートへの文字に、石橋さんの豊劇への思いは再燃する。
「豊劇は、このまちの誰もが知っていて、誰もが愛している、文化的な施設なんだと改めて実感したんです。そうであれば、ビジネスとして継承することは可能なはずです。そして何より、僕自身が、映画館のないまちに住みたくない。ラッキーなことに、自分は今、不動産を商いとしていて、映画の知識がある。できる、やるしかないと、改めて山崎家のみなさんにご相談し、土地と建物を購入させていただくに至りました」
それでもここまで来たいと思わせるものは何か
かくして、2014年の12月のリニューアルオープンに向けて、豊劇再生プロジェクトは動き出す。ここでキーパーソンとして登場するのが、当時23歳フリーターだった伊木さんだ。
「行きつけのカフェでコーヒーを飲んでいたら、石橋さんから『こんど映画館やるんだよ。一緒にやんない?』と声をかけられたんです。はじめは、この人、何言ってんだろうくらいな気持ちでしたよ。でも、何だか面白そうだから、やってみようかと思えたんです」
カフェでの偶然としてサラリとその経緯を話してくれた伊木さん。でももちろん、石橋さんが彼に声をかけたのには理由があった。伊木さんが地域ではちょっと知られた音楽イベントを主催しているのを知っていて、白羽の矢が放たれたのだ。
「その音楽イベントは無料で開催していたんですよ。お客さんからお金をいただいて、サービスを提供するという気持ちがそれまでの僕にはなかった。でも、映画館はお金を払っていただく。それまで僕に欠けていた経験、ここでしかできないことができるんじゃないかと思ったんです」と、伊木さんは振り返る。
その通り。映画館として経営を続けていくには、ビジネスとして収益を上げなければならない。旧来の映画館的な経営のままで、一度閉館を余儀なくされてしまったことには理由がある。ただ、その理由を洗い出して見直すことさえできれば、再生の可能性は大いにあると、石橋さんは考えていた。
「僕は、前オーナーの山崎さん一家がやってこられたことを継いだと思っています。2012年までこのまちに映画館を守ってくれていたことが奇跡なので、その思いは強い。先代があって、受け継がせてもらえたからこそ僕らがある。そういったことを尊重しつつ、僕らのやり方で試行錯誤しながらやっていく。たとえば、持ってくる映画とか、映画館という場づくりといったこと。お客さんに『豊劇で観たい』と思ってもらえる価値が、ここにあることが大事だと思っています」
どんなに熱い思いのある継業も「継続可能な形じゃないと続かない」と、石橋さんははっきりと言ったあと、芸術家としてのことばを足した。
「経済観念の中でお金が回らなければただ落ちていくというのが資本主義なのであれば、さて、それだけでいいのか。それだけで心は満たされない。体力(資金)がなければ工夫すればいい、知恵出そう。担い手に、その絵が描けるかどうかでしょう」
そして豊劇の扉は、三度開く
兵庫唯一のローカルシネマ、豊岡劇場再生の物語は、成功をおさめたクラウドファンディングや、ソーシャル系のWEBメディアによって全国にひろく知られることになった。
「リニューアル直後には、本当にたくさんのメディアに取り上げていただきました。でも、5年経って、変わったことはたくさんあります」と、伊木さん。ずっと順風満帆だったわけじゃない。一度文字になった情報が、人の記憶としてアップデートされないことを歯がゆく思うこともある。
「たとえば、当時は石橋がセレクトする尖った映画が多かったんですが、実際に求められてるのはそればかりじゃないとわかってきたり。今は、小劇場らしい作品と、ディズニーのようなファミリー向けが混じり合っている、といえばわかりやすいでしょうか。最大動員は昨年の「アナと雪の女王2」、その前が「トイストーリー4」。お盆や年末は満席になる、でも、まだゼロのときもあるというのがうちの特徴かもしれません」
リニューアルの際にレンタルスペースに改装した奥の小ホールを、再び劇場に戻したこともあまり知られていない。「それどころか」と、伊木さんはいう。「豊劇が閉まった、ということの方がインパクトが強くて、あれ、やってんだ?と驚かれることだってありますよ、いまだに(笑)」。
人が考える以上に、周知には時間がかかる。それに何より映画業界自体が厳しい時代なのだ、と石橋さん。劇場は文化、映画も文化、でも、映画館はあくまでも商業施設。どんなに地域に根付いていても、個々の企業努力によって営なまれている、まちの大衆文化のシンボルなのだ、と彼は表現する。
「1年目は、年間の来客が4~5,000人。単純に365日で割ってみてください。154席のホールに、1日10人ですよ。それが昨年、やっと年間2万人にまで増えました。それでもまだペイラインには届いていない。だけど5年間コツコツと積み上げてきた成果が出てきて、ようやく今年こそは、という2020年だったんです」
今年こそは。そんな期待に満ちた2020年の春休みとゴールデンウィークのにぎわいは、しかし新型コロナウイルス感染症のもたらした「ステイホーム」と「緊急事態宣言」のもと、幻と消えてしまった。冒頭で述べたが、豊岡市は東京23区に匹敵する広さに、人口約8万人のまち。単純な計算をすれば、人口密度は1/130だ。それでも余儀なくされた、44日間の休業だった。
「みなさんの支援がなければ8年前に一度閉館した時のように兵庫県北部から映画館がなくなっていました。もうずっと無いままだったかもしれません」と、伊木さんがSNSに綴る。「Save Our Cinema」「ミニ・シアターエイド基金」といったネット上でわき上がった支援プロジェクトをはじめ、多くの支えを受けて、5月29日、世界中で愛される名作『ニュー・シネマ・パラダイス』によって、「豊岡劇場」3度目の扉が開かれた。
伊木さんの未来への目標はとてもささやかだ。「豊岡の人たちにとって『映画館で映画が見られる場所』として豊劇を残したい。映画館に足を運ばないのは自由だけど、選択肢がないのは良くない。選択肢を残せる場所であればいいなと思います」
リニューアルして6年目。でも、93年もの長きにわたって多くの人々に愛される映画館。豊劇100年の扉を開け続けるのは、石橋さんと伊木さん2人のおだやかでひたむきな情熱と、そしてローカルシネマを失いたくない私たち市民の「小さな声」なのかもしれない。
継いだもの:映画館
豊岡劇場
住所:兵庫県豊岡市元町10-18
TEL:0796-34-6256