犬養毅や小野竹喬ゆかりの宿「辻与旅館」で、笠岡の歴史に思いを馳せる。 | ニホン継業バンク
  • 会員登録
  • ログイン

2023.02.24

犬養毅や小野竹喬ゆかりの宿「辻与旅館」で、笠岡の歴史に思いを馳せる。

〈 この連載は… 〉

岡山県西部を流れる高梁川流域の10市町には、ここにしかない味や技術、長年愛されてきたお店がたくさんあります。しかし、それらは、後継者不在を理由に少しずつ姿を消してしまうかもしれません。この連載では、市民のみなさんから「絶対に残したい」と応援の声が寄せられた事業を営む店主に、仕事に対するこだわりや思いを伺います。

取材・文:中原あゆ子 写真:bless和田奈緒子 編集:中鶴果林(ココホレジャパン

JR笠岡駅から北西に歩くと、商店や民家が混在する通りに建つ、趣のある建物がある。ここが、明治時代より旅館業を営む「辻与旅館」だ。開いたのは、二代目の辻與一郎。犬養毅元首相や、日本画家・小野竹喬ゆかりの宿として知られており、歴史に関心のある人や、美術愛好家も多く訪れる。

犬養毅・小野竹喬の貴重な資料が

ゆかりの人物のひとり、犬養毅(号・木堂)元首相は、当館の親戚筋にあたる。笠岡市周辺が「小田県」と呼ばれていた明治の初めごろに、職員としてこの地に3年間赴任し、当館をよく訪れていた。その時に書いた書や礼状、写真などが保管され、その一部が1階の「木雲の間」に飾られ、一般客にも公開している。

左の写真は、左から元首相・犬養毅、四代目の辻慶吉、三代目の辻胸太郎

また、笠岡市出身の日本画家・小野竹喬は、生家が当館の目の前にあったことから身内のように親しくしていたそうだ。「三代目の辻胸太郎が、竹喬さんと尋常小学校の幼馴染でね。ご実家はラムネ屋さんを営んでいて、お互いによく行き来していたようです」と、「ちっきょうさん」のエピソードを語るのは、四代目・女将の辻智子(さとこ)さんだ。

犬養毅、小野竹喬とのエピソードや展示の品について説明してくれる智子さん

絵の才覚のあった竹喬は、10代で京都の画家に弟子入りし、画業を学んだが、笠岡に帰って制作する際には、当館に滞在したそうだ。笠岡の風景や絵をはじめ、竹喬の手紙や色紙などを大切に保存し、「竹雲の間」に展示している。

廻船問屋の蔵を宿に

「このあたりは昔近くに港があって、全国から物資が集まる港町だったんですよ」と智子さん。そのまちで、明治以降はゆかりある偉人の品々や、エピソードを通じて笠岡の歴史をも語る宿として営みを続けてきた。そんな当館の前身は、初代・與一右衛門が江戸時代に開いた海産物問屋だったと話す。高松藩の御用問屋として、塩や干物や海藻などを扱っていた。

明治時代に入り、二代目・辻與一郎が、問屋の蔵を使って町に集まる商人や船主を泊めたのが宿のはじまり。その後、正式に旅館として営業を始めたのは1890年(明治23年)頃だと伝わっている。当初は泊まりのみの宿だったが、時代が移り変わり、昭和に入ると社用で訪れる人も増えたことから、料理を提供するようになった。謡曲や琵琶を嗜んでいた胸太郎は、著名人との交友も広く、より人に喜ばれる質の高いもてなしに力を入れたからだ。

2階の部屋には辻家代々の琵琶や竹喬作の絵画、彫刻などが並ぶ

本格的な料理旅館を目指す

四代目・辻慶吉は、父のやり方を受け継ぎ、より格の高い宿を目指す。完全予約制にして、一組一組の客の好みに合わせた料理やサービスに力を入れたことで、「祝い事や法事などの特別な日は辻与旅館で」という贔屓の客が増えていった。25歳の時に嫁いだ智子さんも、厳格な先代や女将に礼儀作法から接遇、心得にいたるまでしつけを受けてきた。華美な装飾品もご法度。「お客様あっての商売なのだから、お客様をまず引き立たせるような装いをするように」とあくまでも一歩下がることを教えられたという。

「おすすめのもの、お嫌いなものなどお客さまのご意向を細かくお聞きしています。お祝いであれば、どんなお祝いなのか、法事なら宗派までお聞きして、料理も掛け軸も選びます」と、懐紙に書いて添える一筆メッセージにも、女将の細やかな心遣いがうかがえる。

笠岡市は、江戸時代から干拓が進み、陸地化したところに広がっていったまち。1993年(平成5年)には、市の大規模な土地区画整理事業で駅前エリアの土地を減歩*することになったため、辻与旅館もそれを機に、現在の場所に一新した。「笠岡も、以前はお寺の周りに古い家並みが10軒以上連なっていたんだけどね。今ではそういう風景もなくなってしまいました」と智子さんはつぶやく。

*施行地区内の宅地の区画形質の変更に際し、換地の面積が従前の宅地の面積に比べて減少すること

建て替えにあたっては、ご縁があり、倉敷を拠点に古民家再生を多数手がけている建築家・楢村徹氏に依頼した。古い建物を再生した数寄屋風の建物は、弁柄色の壁がアクセントになった古風な佇まい。石を埋め込んだ外壁や、ダイナミックな吹き抜けの階段ホールなどにモダンさもあり、界隈で目を引いたという。玄関アプローチには、江戸時代に使われていた分銅がオブジェのように置かれていて、海産物問屋だったころが偲ばれる。

古木の梁や柱を生かした建物の随所に、楢村建築らしい意匠がうかがえる

金融マンから旅館の当主に

代替わりをしても受け継いできた心づくしのサービスが評判で、順調に営みを続けていた辻与旅館だったが、1998年に慶吉さんが病に倒れ、他界した。長男の順吉さんは、金融機関に勤務し、各地を転勤していたが、妻・祐美子さんとともに笠岡に帰郷した。「結婚する前から笠岡にいつか戻ることは考えていたようで、『金融マンの奥さんではなくなるかもしれないよ』と言われていたんですよ」と祐美子さんが打ち明ける。両親のこれまでの苦労や努力を見てきた順吉さんは、その時が来たら後を継ごう、という意志を固めていたのかもしれない。
帰郷後、順吉さんは五代目として日本料理の修業を始め、祐美子さんも智子さんのもとで女将業を学び、1997年に正式に事業を受け継ぎ、新たな辻与旅館をスタートした。ゆったりとした空間で、書や絵画などを愛でながら、懐石料理を味わえる宿として新たなスタイルを築いている。先代が代々大切にしてきたように、ひと組ごとのもてなしに、より心を込めているそうだ。

笠岡で歴史を刻む辻与旅館。現在は限定室数でゆったりと営業している

「オンライン予約が当たり前の時代ですが、できるだけお客さまのお声を聴いて、雰囲気やお好みを想像しながら、できるだけ丁寧にご対応していきたいですね」と話す若女将の祐美子さん。明治から令和にいたる133年の歴史と、ゆかりのある歴史的人物の貴重な品々が、もてなしの心とともに笠岡の地で大切に受け継がれている。


絶対に残したい!倉敷・高梁川流域のお店 : 約130年続く旅館

※本記事は後継者を募集するものではありませんので、直接事業者様にお問い合わせされることはお控え下さい。