
〈 この連載は… 〉
岡山県西部を流れる高梁川流域の10市町には、ここにしかない味や技術、長年愛されてきたお店がたくさんあります。しかし、それらは、後継者不在を理由に少しずつ姿を消してしまうかもしれません。この連載では、市民のみなさんから「絶対に残したい」と応援の声が寄せられた事業を営む店主に、仕事に対するこだわりや思いを伺います。
取材・文:中原あゆ子 写真:bless和田奈緒子 編集:中鶴果林(ココホレジャパン)
雑居ビルの地下に開業

倉敷駅前通りの角地に、蔦が絡まる5階建ての雑居ビルがある。倉敷で生まれ育った人なら一度は目にしたことがあるだろうそのビルの地下でひっそりと、バー「遁走曲」は営まれている。
鎖の手すりを伝って地下へ降りると、ほの暗い店内にはジャズが流れ、カウンター7席とボックス席が2つだけのこぢんまりとした空間が広がる。圧巻なのは、バックバーの洋酒の数。スコッチやアイリシュ、バーボンなど世界のウイスキーを中心に、スピリッツやリキュールまで約500種類がぎっしりと並ぶボードは、洋酒好きにはたまらない景色だろう。
さらに、壁や天井のいたるところに貼り付けられた無数の名刺にも驚かされる。「最初にお客さまが、壁にピンで留められてから、次々と増えていきましてね」ゆったりとした口調で話すのは、オーナーでバーテンダーの吉川浩子さん。アンニュイな雰囲気をまとったこの女性が、一人で店を営んでいる。

初代オーナーは小説家志望の夫
店がオープンしたのは今から44年前の、昭和53年。吉川さんのご主人である故・明夫さんが始めた。記者として新聞社や雑誌社を転々としていた明夫さんは、いつか脱サラして小説家になるという夢を抱いていた。「本を書きながらでもできる仕事を探して、当座しのぎぐらいの気持ちで始めた」と、浩子ママは当時を思い出しながら語る。
いっぽう東京でナレーターの仕事をしていた浩子さんは縁あって倉敷に住まうようになり、「遁走曲」の客として訪れるうち、バーテンダーの明夫さんと親しくなり結婚した。
『遁走曲』という店名も、「仕事を辞めて逃げ出したい」という思いの表れだったとか。しかし小説家になる夢は10年経っても叶わず、所在無げに店にいるご主人を見かねて、「私が代わりにお店をやろうか」と告げた。半年の引き継ぎののち、明夫さんは店に出ることはなく、以来34年間浩子さんがひとりで切り盛りしてきた。その明夫さんを見送ったのは10年前のことだ。
「主人から伝授された心得といっても特になくて…」バーに関する本10冊ほどと、明夫さんが記してきたカクテルのレシピ帳を基に、ほぼ独学で酒についての知識や作り方、バーテンダーとしてのマナーなどを身に着けた。
客層は20代から50、60代まで幅広い。水島コンビナートが開かれ、倉敷が活気づいていた昭和50年代後半にオープンし、医療関係者や公務員、コンビナートに勤める企業人などが、取引先や部下を連れて訪れた。客がまた上客を紹介してくれて店もにぎわった。

聞き手であること、に徹して
「バーテンダーといっても私は不器用なほうですし、ことさら会話が上手なわけでもありません。最低限、お客さまの雑音にはならないようにしようと心がけてきました。静かならいいというわけでもないのですが、こちらから極力話しかけないようにしています」と心に決めている浩子ママ。

だからといって、会話ができないような厳格な店では決してない。
「うちのお客さまは、お酒が好きで、落ち着いた店で静かに飲みたいという方が多いんです。グループのお客さまだとどうしてもにぎやかになりますが、お客さまのほうが『静かに』って気遣ってくださったりしてね。私はもっと騒いでもらってもいいのと思っているんですが、そうならないのが不思議です」と笑う。
飲めない人こそ楽しんで
客のテリトリーに決して踏み込まない、浩子ママの距離感は絶妙だ。そういう見えない空気を壊さないよう楽しめる、上質な大人の世界がここには醸成されている。ひとりで訪れて、問わず語りにつぶやきはじめる人もいるといい、かつては社交場だったバーが、大人が安らげる居場所としての役割も果たしていることを感じさせる。
浩子ママの思いは、酒が苦手な人にもバーを楽しんでもらいたいということ。「お酒の強い方はご自身で選んで飲まれるからいいのですが、お酒が強くない方や、少し苦手だという方にこそ楽しく飲んでいただきたい」という。そのために、スピリッツやリキュールの種類を増やし、アルコール度数が低くても美味しい酒、好みに近いオリジナルのテイストを提供するよう努めている。

世代を越えた、伝説の店に
開業から44年。倉敷を訪れる観光客や、長年の常連客に支えられ、店の営業はほとんど休んだことはない。困ったことといえば、「お店が古いでしょ。電気の配線が切れたり家電製品が壊れたりっていうことはたびたびありまして。それもお客さまが直してくださったり、お知恵を貸してくださったりして何とか続けられています」と肩をすくめる。
しかしながら、コロナ禍のこの3年間は、今までで一番きつい毎日だったという。「真っ暗なトンネルの中をやみくもに這いずりながら歩いているよう」な心境だったと話す浩子ママ。「今思えば、バブル時代って何もしなくてもお客さまが溢れるようなすごい時代だったんだなと思えますね」
「青年だった方が、立派な大人になって部下を連れてこられたり、お子さんを連れてこられたり。中にはここでプロポーズされる方もいらっしゃいます。本当にありがたいことですね」訪れる人の人生を、静かに見つめてきた浩子ママ。「難しい仕事ではないし、ここにいるのがやっぱり好きなんですね。自分が店に立てるうちは、ずっとこのままやっていきたいと思っています」年季の入ったカウンターに立ち、終始おだやかに語ってくれた。

絶対に残したい!倉敷・高梁川流域のお店 : 世界の銘酒約500種類を提供するバー
※本記事は後継者を募集するものではありませんので、直接事業者様にお問い合わせされることはお控え下さい。