創業100余年の造り酒屋。岡山産の米と地下8mから湧く天然水で醸す「芳烈酒造」 | ニホン継業バンク
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2022.11.15

創業100余年の造り酒屋。岡山産の米と地下8mから湧く天然水で醸す「芳烈酒造」

〈 この連載は… 〉

岡山県西部を流れる高梁川流域の10市町には、ここにしかない味や技術、長年愛されてきたお店がたくさんあります。しかし、それらは、後継者不在を理由に少しずつ姿を消してしまうかもしれません。この連載では、市民のみなさんから「絶対に残したい」と応援の声が寄せられた事業を営む店主に、仕事に対するこだわりや思いを伺います。

取材・文:中原あゆ子 写真:bless小野友里恵 編集:中鶴果林(ココホレジャパン

築130年の商家を受け継ぎ酒蔵に

往時を偲ばせる通りに面した勇壮な建物は明治20年に建築。あさのあつこ原作の映画「バッテリー」のロケ地にもなった 

岡山県のほぼ中央部に位置し、三方を連峰に囲まれた山間の小さな町・高梁市有漢町。三方の連山が分水嶺を成す、豊かな緑と清らかな水に恵まれた地だ。その中心部に近い旧街道沿いに、創業100年を超える蔵元・芳烈酒造がある。

「芳烈」に縁起物の「櫻」を冠した代表銘柄の「上撰 櫻芳烈」と「生原酒有漢」。全国新酒鑑評会で6度の金賞を受賞

「蔵の名は、備前岡山藩の三代藩主・池田光政公が逝去した時の、送り名『芳烈公』から命名したんです」と、看板を指差しながら由来を説明してくれるのは、代表取締役で3代目の難波国夫さん。自ら杜氏を務め、「櫻芳烈」や「有漢」「風」などの銘酒を世に送り出している。

有漢では幕末頃に有力な大地主が生まれ、酒や醤油の醸造、呉服商や鉱山業を営んで富を蓄え、文化や教育に力を注いでいた。しかし、明治末期に3軒あった大地主がすべて倒産。難波さんの妻の実家である尾島家の6代目が、そのうちの1軒、佐藤分家の建物を引き継いで酒蔵に改装し、1918年(大正7年)に創業したそうだ。

56歳からの杜氏修業は厳しく

ホーローや鉄製のタンクが並ぶ。コロナ前までここで「酒蔵JAZZコンサート」も開いてきた

難波さんは、若い頃から酒造りに関わってきたわけではなく、もとは夫婦揃って教員だった。先代が病気がちだったことから酒屋を手伝うようになり、由緒ある建物や蔵を守るために承継を決意。1996(平成8)年に代表取締役に就いた。

新たに但馬から招いた杜氏とともに酒造りに励んでいたが、ある年のこと、頼りの杜氏が倒れたという連絡が入った。仕込みには間に合ったが、それをきっかけに難波さんが但馬杜氏に教えを請い、本格的に修業をすることになった。

「10年はかかることを1、2年で覚えようとするんじゃから、それは厳しく教えていただきました。造りの工程だけでなく機械の組み立てから道具の修繕までですからね。すっかり体型がスリムになりました(笑)」。厳しい修業を積み、8年前から難波さんが酒造りの工程すべてを仕切っている。

天然の井戸水が、うちの宝

約130年前に築いたという深さ8mの井戸。自然に湧き出る井戸水はとてもまろやかな口当たり

酒造りには米や仕込み水が重要だが、芳烈酒造では、天然の井戸水を仕込みに使う。もともと水質が良いうえ、軟水だがミネラル分が豊富。分析データでもお墨付きだが、現代の名工に選ばれた杜氏をして、「この水は財産ですよ」と言わしめたという名水だ。

酒米は、岡山県産の山田錦や雄町、アケボノなど、粘り気があってデンプンをたっぷり含んだ良質の酒造好適米を使っている。

良質の仕込み水を使い、県内産の米をじっくり低温で長時間発酵させることで、やわらかく飽きのこない飲み口に仕上げる。それが代々・芳烈酒造の伝統ではあるが、難波さんが杜氏を務めるようになってからは、遠来の客も増えるなど評判が高まっている。そこには、難波さんならではの酒造りへのこだわりがあった。

手間をいとわずスローな製法を貫く

たとえば、蒸し終えた米を麹室に引き込んで発酵させる「盛り」の工程では、麹蓋(こうじぶた)に蒸し米を広げて1枚1枚布をかけ、細やかに温度管理をする。

「温度が上がり過ぎると麹菌の活動が鈍るからね。箱が多ければそれだけ手が要るわね。夜良かったからというて朝まで寝とったら危ない。必ず夜中の4時には起きて様子を見ます」。人任せにせず、仕込みの季節は寝ずの番をしながら、現在も昼夜を問わず酒造りに向き合う。

「米を磨くにも、もう5パーセント違うとどうだろうとか、あの時は温度が高すぎたから、冷やすのに氷を使ったらどうだろうとか毎回試行錯誤しています。新しい道具も揃えんといけんけど、出来る限りあるものでやりたい」と機械に頼らず、昔ながらの用具を使った酒造りを続けている。

その酒造りを支えるのは、代々受け継がれた杜氏の帳簿と細かい分析データだと難波さんはいう。けれど、そのデータを日々の環境や条件によって応用するのは、やはり培ってきた勘によるところも大きいはず。

小ロット、多様な嗜好に応える

日本酒を取り巻く厳しい状況について話す難波さん

「今私がやってることは、昭和のやり方と一緒です。それは日本酒を造る量が日本全体でぐっと減ったから。昭和50年頃が日本酒の生産量のピークだとしたら、今は1/4から1/3になっとります。だから小さい仕込みでも、自分なりの工夫ができるんです。細かい手間をかけることで、おいしい酒を造りたい。私としてはその方が面白いんです」。手間をかけられるようになった背景には、そんな現状もあった。

過去には、いろいろな取り組みにもチャレンジしてきた。有志で田植えをし、収穫した米で自分だけの1本を作ってもらったり、農家から異なる品種の酒米を持ち寄ってもらい、できた新酒瓶に「マイラベル」を作って貼ったり。あるいは地域の異業種の人々とともに麹造りをしたこともあった。

現在は原点に立ち返り、地道な酒造りに専念。一方で、多様化する嗜好に応えられるよう日本酒の魅力を伝えるイベントにも積極的に参加している。

旨い酒を囲んで語り合える場に

「もっと売りたい気持ちもあるけど、あんまり売れたらもう造る人もいないんで。こぢんまり、でもないですが、できれば皆さんに蔵に来ていただいて話を交わしたり、興味がある人に酒蔵を見学してもらったり…。そういう人との触れ合いっていうのを楽しめたらいいんじゃないかなって思うんです」。66歳になった難波さんは、現在の心境を話す。

「酒造りはね、私ができるぐらいですから誰がやってもできると思います。今は妻も仕込みを手伝ってくれていますしね。しかし技は見て覚えるしかない。どなたかが一緒にやりたいといってくれても、この明治からの建物や蔵を譲るにも改修が必要でしょう。でも、いざという時のことを考えると、それもいいなとは思うんですがね」


絶対に残したい!倉敷・高梁川流域の味 : 創業100年を超える蔵元・芳烈酒造

※本記事は後継者を募集するものではありませんので、直接事業者様にお問い合わせされることはお控え下さい。